2000/06/06UP

もう一人の自分

自分の行動や感情の変化があった時に、自分の体の状態やそうなるに至った経緯を分析する「もう一人の自分」が普段の勉強に必要である。そして、演じる時に「役になっている自分」を制御する「もう一人の自分」が演技者として必要である。前者は俳優に限らず、監督・脚本家にも必要だと私は思っている。

少し具体的に書くことにしよう。
葬式に行って泣いてしまった時、何が引き金になったのかを考え、自分の呼吸の状態や筋肉の動きとその感覚を出来るだけ細かく分析して覚える。例えば、その引き金は喪主の最後の挨拶の声が突然裏返ってしまったことだったとか、
息は吸った状態で止まってて喉は開いてるとか、嗚咽が出るのは横隔膜が疲れて痙攣を起こしてるからだなとか、泣いている時に言葉が震えてしゃべれないのもそのせいだなとか、顔の筋肉はどこがどう動いているとか・・・とにかく細かく分析して覚えるのである。「感覚と感情の記憶」これが勉強である。そして、それを「再現」するのが俳優の仕事である。
その「再現」を行って芝居をする時に「これ以上泣き過ぎたら台詞が言えなくなるから抑えろ」と言う「もう一人の自分」が出て来たりする。「もう一人の自分」がしゃべっている言葉は表現に反映されてはいけない。(このことについては後日「心の囁き」という題名で書く予定)

この「もう一人の自分」を受け入れることが出来るかどうかで、道は決まると思う。「もう一人の自分」がいると自分の感情に完全に溺れることは出来なくなる。映画も純粋な客のようには観れなくなる。それは、一般的には不幸なことと言えるだろう。私は口では「不幸になる」と言ってはいるが、全然そうは思っていない。「もう一人の自分」がいることがあたりまえになっている。「もう一人の自分」を受け入れることの出来ない人はこの世界で生きていくのは難しいと思う。

予科科目Eでは「役になる」と言うことがどういうことか、そして、「もう一人の自分」の存在を感じてもらうために課題を与えている。それは台本のない自分の言葉でしゃべるものであるが、その感覚と同じ感覚で台本のあるものが出来た時にすばらしいものが出来るのである。

私は映画や演劇を見る時、客として観ながらも必ず「もう一人の自分」が分析をしているが、時々「もう一人の自分」が出て来れないくらい引き込まれるシーンに出くわすと「やられた」と思う。そのシーンの細かいことが思い出せなくなるので、後で観直して分析をする。(笑)

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