[アンケート]

Fairy Wing


             *  *  *
『永遠の愛なんて、嘘。そんなの、全部……全部、嘘なの』
泣きそうな顔をして、それでもまっすぐな瞳で。
心を貫く刃のような鋭さで。
彼女はそう、つぶやく。
決して無邪気ではないけれど、透きとおる純粋さで。
その哀しい程の強さで。
そう、言い募る。
とても、とても愛(かな)しい人。
深い深い、お伽話の森の中。
蒼く澄んだ湖に住む、妖精の羽の色ように……
              *  *  *
布に染み込んだような冷たさで、僕は気がついた。息を吸い込むと、濃い水と緑の匂いが体にも染み込んでくる。
僕は異様に重い瞼をゆっくりと開いた。
目に入ったのは自然の色。草のみどりに土のこげ茶が、幾重にも重なり、揺れる影の中に見える。
わずかに体を動かすと、頭の芯を駆けぬける痛みと短い草の感触が、僕を現実に引き戻した。
(ここは一体、何処だ……?)
 基本的な疑問が、幸いにも一瞬だった頭痛が引いていく代わりに浮かぶ。
 僕は上半身を起こして、こめかみをおさえた。
 周りを見渡すと、そこは何処か、深い森の奥。高い樹の葉の間から、わずかに差し込む光が僕を照らしている。
 小鳥のさえずりだけが、かろうじてそれの静寂を防ごうとして、あたりにこだましている。
 僕はどうやらここに倒れていたらしい。

(見覚えは……無いな……)
 どんなに見渡しても、僕の記憶にはこんな場所は無かった。こんな森、知らない。第一、どこまでも樹々が続いているばかりで、検討のつけようもないのだ。
 僕は仕方なく、立ち上がってみることにした。
 そばにあった樹に体重をかけ、ゆっくりと体を起こす。平衡感覚は鈍っているものの、どうにか歩く事は出来そうだ。
 僕はそのまま、歩き始めた。
 浅いみどりと濃いみどりが重なり合い、森はどこまでも続いている。
 鳥たちの歌声に、僕の落ち葉を踏みしだく音が寄り添い、どこか心地よささえ感じさせる。
 しかし、永遠とも思える森が、その日をさえぎる樹々が創り出す薄暗さが、心地よさすら消し去り、僕を不安にさせる。

 やはり、どこまで行っても樹々がそびえたつばかりだ。変化を見つけるよりも早く、僕の体力の方が参ってしまった。
 息が上がり、せき込む。
 僕は思わず、一番近くにあった巨木に体重を預けた。
(普段の運動不足がたたったか……)
 苦笑いと共にそんな考えが頭に浮かんで、僕の意識は急激に遠ざかっていった。
              *  *  *
 気がつくと僕は、目を開くのが億劫になるような、暖かさの充満している部屋にいた。
 程好い暖かさが、意識を取り戻した僕を再び、今度は眠りにいざなう。
 それでも努力して目を開くと、そこは丸太小屋の中のようで、ぱちぱちという微かな音が辺りに妙に大きく響いていた。
 暖炉の薪の音だ。
 木のテーブルに椅子、ベッド。広い室内にあるめぼしいものはそれくらいで、あとは何も無い。
 すべては木でできていて、赤と白を基調としたテーブルクロスと絨毯、それに暖炉の上に無造作に置かれた止まった置時計だけが、異様に目立つ。
 僕はその小屋のほぼ中央の椅子に居た。

「お目覚めですか?」
 突然声がして、ぼんやりと室内を観察していた僕は驚き、扉の方に目をやった。
 見るとそこにいるのは、人形のような少女だ。
 夜の色をした絹糸の黒髪。雪の肌。大きな籠を抱えたその少女は、玻璃玉の瞳で僕を見ている。
 綺麗な人だった。けれど、何か……その美しさには欠如していた。
 「生気」、と言うのだろうか。生けとし生けるものにあるそれが、目の前の美貌の少女からは感じられない。
 しかし……。

「気分は如何です?」
 少女は相変わらずぼんやりとしている僕に向かって、首を傾げて聞いた。とても澄んだ、透明な声だ。
 少女は抱えていた大きな籠をテーブルに置き、僕のそばに立つ。
「あの……?」
 僕はいまいち状況を飲み込めずに、少女を見上げて言った。何とも間の抜けた声に、自分でも違和感を覚える。
 しかし、僕はそんな事にはかまっていられなかったのだ。
 僕は、彼女を知っていた。
 具体的に何を知っているという訳ではなかったが、しかし、確かに私はそこに立つ彼女という存在を知っていたのだ。
 名前すら知らない、この少女のことを。

「……? あ、ここですか?」
 少女は僕の当惑した様な顔を見て判断したのか、微笑して言った。そして何気なく部屋を見渡す。
 少女が初めて見せたその表情(せいき)に、そしてその仕草に、僕は何故だか急に懐かしさと悲しさを感じた。何処かが、とても痛い。
「ここは『忘却の森』です」
 少女は暖炉の上の時計を見つめ、その場所で視線を止めて言った。
「『忘却の森』?」
 僕はオウム返しに少女の言葉を繰り返す。
「ええ、そうです。ここにはありとあらゆる『忘れられた大切なもの』が集まる場所。人が ここに来るのはとても珍しいのですけど。」
「……?」
(『忘れられた大切なもの』が集まる……? 人がここに来るのは珍しい……?)
 いまいち、少女の言っている意味が分からない。
 僕が少女の言葉に混乱していると、ふと、少女が僕のほうに視線を移した。
 どこまでも透き通っていて、僕の心も見透かしてしまいそうな、その瞳で。

「……貴方は、誰?」
 唐突に、そして哀しいほど透明な声で、少女は言った。今にも泣いてしまいそうだ。
 どうしてそんな表情(かお)をするんだろう……?
「僕……? 僕は……」
 彼女にそんな表情をさせたくなくて、もし答えたらまた、先刻(さっき)のように微笑ん(わらっ)てくれるだろうかと思って、僕は答えを探した。
 しかし、何も言えない。言う事が出来ない。
「僕、は……誰なんだろう……?」
 気づくと、そう言っていた。とても自然に。
 言ってから、冗談だろうと自分でも思ってしまった。しかし、自分が誰なのか、本当に何も分からないのだ。己の名前さえも。
 少女はさらに悲痛な表情をして、唇をかみしめた。痛々しいものを見るように僕を見つめ、言葉を捜している。

「そう……貴方は、貴方を、忘れてしまったの……」
 しばらくの沈黙の後、少女は苦しげに言った。
「……」
 僕は何も言う事が出来ずに、少女を見つめ返す。僕にはもう、何も分からなかった。
 少女は考え込むように少しうつむいて、それからもう一度、僕と視線を合わせた。そして、祈るように言う。
「……仕事。仕事のことは、覚えていますか?」
 少女の言葉に、僕は分からないことのショックで麻痺した頭を懸命に働かしてみる。しかし、何も浮かんではこなかった。
 僕は無言で首を横にふる。
「そう、ですか……」
 絶望した様な顔で、少女はつぶやく様に言った。そのまま、うつむく。
 また、何処かが痛い。

「嫌、だ……。君にはもう、そんな表情(かお)はさせたくない……。させないと、誓ったのに……」
 突然、僕の口からそんな言葉がこぼれた。無意識だった。
 少女が、驚いた様に顔を上げる。
「君には、わらっていて欲しいんだ……」
 一番驚いたのは僕自身だ。どうして、こんな言葉が口をついて出てくるのか、まるきり理解できない。しかし、言わなくてはいけないという、妙な義務感があった。
 何より、今の僕の中で、もっともはっきりとしている事だった。
「私を、覚えているの……?」
 大きな瞳で私を見つめたまま、少し震えた声で、少女が言う。
 僕は何か考えるよりも先に、言葉を発していた。
「知っている……ずっと……。ずっと、覚えている……君を……。たとえば、僕が死んでしまっても……」
 遠い昔、何処かで僕が言った言葉。それは、何処だったのだろう……?
 今はもう、思い出すことも出来ない。

 次の瞬間、彼女は私の腕に崩れ落ち、声を上げて泣き始めた。
              *  *  *
「……それじゃあ、僕は何か、とても大切なものを忘れてしまったから、『忘却の森(ここ)』に来てしまったということ?」
「ええ。貴方は今、少なくとも『自分』と『仕事』については思い出せないでしょう?」
「……」
 僕は思わず黙ってしまった。こんな事があるのだろうか。
 まだ、とても信じられない。

 彼女はしばらく泣いた後、僕に『忘却の森』について説明してくれた。
 彼女いわく、『忘却の森』は、この世の『何処にもない場所』。
 人々の生活の中で、『忘れられた大切なもの』……例えば子供の頃大切にしていた玩具(おもちゃ)。思い出のような形のないものも、人に忘れられたものはすべて、ここに集まるのだそうだ。
「だから、ここに人が来るのはとても珍しいの。忘れられた人というのは、思い出になるはずだから……。人が来るのは、忘れてしまった大切なものが、まだ忘れてはいけないもの だった場合だけなの」
 そう、彼女は言っていた。
 つまり、僕はまだ忘れてはいけない、何か大切なものを忘れてしまったから、ここに来てしまったというのだ。
「その大切な何か……貴方の場合は、とりあえずは『自分』と『仕事』。それを見つけない 限り、ここから出ることは出来ないの。だってここは、この世の『何処にもない場所』だもの。見つからない限り、さまよい続けなくちゃならないの……」
 彼女はそう、続けた。
「……って、じゃあ、現実の僕はどうなるの?」
 思わずそう尋ねると、彼女は首を横にふった。
「分からない……。だって、私もその忘れてしまった大切なものを探しているんだもの 
 ……。今まで貴方に説明したことだって、もとは私が知っていたことじゃない。私よりも 前にここに来た人に、 教えてもらったの」
 彼女はそう言って黙り込み、床を眺めた。また、生気を感じなくなる。
「……君は、何を探しているの?」
 彼女が人形の様になってしまうのがたまらなく苦しくて、僕はとにかく彼女に話しかけた。
 うつろな瞳が僕をとらえて、嘲笑にも似た微笑みが浮かぶ。ひどく憔悴した様に。
 何故か、僕は彼女のそういう表情に、痛いほどの懐かしさと苦しさ、かなしさを感じるのだ。
 そしてそれは、僕の中の何処かを、ひどく傷めつける。

「僕は、君のことを知らない。名前すら、分からないんだ。それなのに……どうしてだろう? 確かに、僕は君を知っている。君は、誰なんだ……?」
 僕はたまらずにそう聞いた。何か言わずにはいられないのだ。この息苦しさから、逃れたかった。
 だが言っている事は支離滅裂(めちゃくちゃ)だ。自分でも何を言っているのか、何を言いたいのか、よく分からない。
 しかし、彼女がうつろに微笑んだまま首を横にふって言った答えは、さらに僕を混乱させるだけだった。

「私は、現実の貴方を知っている。貴方は……私を忘れてしまうべきだったのに……」
 その声は涙に濡れて、僕の心に沈んでいった。
              *  *  *
 彼女はこの『忘却の森』について教えてくれた以外は、決して僕に何かを説明してはくれなかった。
 分からないことは忘れてしまった大切な何かであるかもしれないので、自分で探さなくては意味がないというのがその理由だった。しかし……。
「私は、忘れられるべき存在なの……」
 僕が彼女に、彼女自身のことを尋ねると、彼女はそう繰り返すばかりだった。名前すら、教えてくれない。

 僕が今、忘れているのは、彼女に指摘された、『自分自身』と『仕事』についてだけのようだ。
 生活に必要な、いわゆる一般常識的なものはすべて覚えている。
 とにかく自分について、完全に欠落しているのだ。
 そして、彼女の事。
 知っている。でも知らない。彼女の事を知っているということ以外、何も分からない。
 これも、現実の僕が、忘れてしまったことにつながるのだろうか?
 自問自答してみるが、分からない。
 僕はそれでも『忘却の森』のことについては、だんだん分かるようになってきた。
 否、分かるようになる、というのとは違うかもしれない。
 現実にはとても信じられないようなこの森を、理解しているわけではないのだ。
 あえて言うならば、『感覚として捉えている』
 例えば、この森に来て、僕は一度も食べ物を口に運んでいない。食べなくてもまるきり平気なのだ。
 例えば、この森に来て、どのくらいの時が経っているのか、僕は知らない。『時間』という概念がないのだ。
 そういう現実には考えられない事を、感覚として分かっていた。
              *  *  *
「外に出ない?」
 椅子に座ってぼんやりと暖炉の火を眺めていた僕に、彼女は言った。ここで会ったばかりの時からは想像も出来ないほど、穏やかな表情で。
「そうだね。少し、外に出たいな……」
 僕は彼女に答えて、立ち上がった。

 僕はこの森に来て、そのほとんどを彼女と過ごしている。彼女はずいぶん長くここにいるのか、森の事をとてもよく知っていた。
 人間というのは1つの場所に留まっているのには限界があるようで、ずっと丸太小屋にいるとだんだん気が滅入ってくるのだ。
 すると彼女はそんな僕の気分に気がついてか、森の中の散歩に誘ってくれる。

「湖に行こう」
 外に出ると彼女がそう言って、僕の一歩前を歩き始めた。
「湖なんてあるんだ」
 僕が彼女に言うと、彼女は少し僕の方を振り向いて微笑む。
「うん。すごく、綺麗なの」
 そしてまた、前を向いて歩く。
 彼女のそういう表情を見る事が出来るのが、無性に嬉しくて、僕は彼女の隣に並んだ。
 小柄な彼女は僕を見上げるて、また優しく笑う。
 そんな事が、たまらなく嬉しい。そんな自分がおかしくて、僕は前を向く。

 僕は、たった1つだけ、彼女について思い出していた。
『現実の世界で、僕は確かに彼女を愛していた』という事を。
              *  *  *
 湖は、本当に綺麗な所だった。
 森の中の薄暗さとはうって変わって、そこには日の穏やかな明かりが何の邪魔者もなく照っている。
 その光が水面に反射して光っているのが、とても美しい。
 妖精が住んでいるのではないかと本気で思ってしまう。

「お弁当とか広げたくなるね、ここ」
 僕が思わずそう言うと、彼女はおかしそうに笑って、
「そう言うと思った」
と言った。そして眩しそうに湖を見やる。その横顔はとても美しい。
 きっとに妖精が住んでいるとしたら、彼女のような姿をしているのだろう。
「確かに、ピクニックのお昼ご飯には最適な場所だなぁって、私も思ったけどね」
 僕に視線を戻して、彼女はその穏やかな表情のままで言った。
「だろう?」
 僕は地面に座って、今度は逆に彼女を見上げながら言う。
 彼女はそんな僕を置いて、湖の淵にひざをついた。水を掬い上げて、それをじっと見つめる。零れていく水が光を反射する。
 その瞬間、僕はゆっくりとした時の流れを確かに感じた。そして、その流れと共に、彼女の表情が消えて行くのも……。
 彼女はあの、痛くなる様な瞳で、ただ水がその指の間から零れていくのを見つめている。
 そして手に掬った水がすべて湖の波紋になると、彼女は僕の方に戻ってきた。
 ついさっきまであんなにも優しい表情をしていたのに、すっかり哀しい顔になっている。

「何か、思い出した?」
 彼女は僕に救いを求めるように、切実な声で聞いた。
「……いや、何も」
 僕は反射的にそう答える。彼女の表情が、さらに曇る。
「そっか……」
 彼女はそう言うと、僕の隣に座った。
 それきり、何も話さない。ただ無表情に水面を見つめている。

 ここに来てから、彼女がそんな表情をするのは、2度目だった。
 最初に会った時、その後は、彼女は決して僕に暗い表情は見せなかった。
 あの時以来、1度も見せなかったその人形のような顔に、僕はひどく動揺していた。
 あの時と同じように……いや、あの時以上に、彼女のこのかおは、僕を冷たい、湖の底につき落とす。

「君を、とても愛していた……現実の僕は。そうだろう?」
 僕は思わず、彼女にそう言っていた。この感覚は否応無く、僕の本心をえぐり出すようだ。
 彼女はぎょっとしたように、僕を見つめた。
「どうしたの……? 突然……」
 乾いた声で、つぶやくように言う。
「思い出したんだ。僕は、君を愛していた」
 彼女のつぶやく様な声が、余計に僕の神経を逆撫でして、もう耐えられなかった。
 どうにかこの苦しさから、抜け出さなくてはならない。
 そうしなければ、僕は狂ってしまうだろう。
 僕は彼女を抱きすくめた。
「君が、とても大事だった。何よりも……大切だったんだ。失くしたくなかった。自分の命と引き換えにしても……」
 彼女は何も言わない。ただ、微かに震えているのが分かった。
「君に、そんなかおはさせたくないんだ。いつも、笑っていて欲しい。今でも……とても愛しているから……」
 それ以上、何も言えなくて、僕も押し黙った。
 もどかしい。こんなことしか言えない自分が。もっと、もっと彼女に伝えたいことがあるはずなのに……。

「嘘……」
 どのくらいそうして黙っていたのか。
 気が遠くなるほどの沈黙の後に、彼女がぽつりとそう言った。
「貴方は、私を愛してなんか、いなかった」
 僕の胸にしがみついて、かたく唇を引き結んで、まっすぐに前だけを睨みつけながら、彼女は強くそう言う。
「嘘なんかじゃな……」
「全部、嘘!」
 僕は反論しようと口を開いたが、彼女の激しい言葉に遮られた。
「違う! 全部、全部嘘なの! 貴方は、私のことなんて、忘れてしまう方がいいのよ!」
 殺気にも似た激しさで、僕を睨んで、彼女は言い募る。
「忘れちゃってよ! 私の事なんて、全部、忘れてしまえばいいのに……ッ」
 けれどその激しさは、怒りという感じがまるでしなかった。
 とても強く言い放っているのに、哀しく聞こえるのはそのせいなのだろう。
 僕は不思議と穏やかだった。頭がすっきりとして、急速に記憶が浮かび上がる。
 それは僕を絶望させるものだったけれど、それでも忘れたままでいるよりもずっと良かった……。

 僕は無意識に彼女の顔を両手ではさんで、上げさせた。
 強い光を孕んだ瞳をしっかりと見つめて、浮かび上がった言葉を口にする。
「愛してる……永遠に。君の事だけは、ずっと覚えている。たとえば僕が死んでしまっても ……来世で君に会う為に」
 彼女は、息を飲んだ。
 こんな歯が浮くようなせりふを、僕は前にも彼女に言ったのだ。
「……覚えてるだろう? こんなキザなせりふ、忘れないよな……?」
「……」
 彼女は何も言わない。ただ、僕を見ている。
「碧羽(あおば)」
 彼女の名を、呼ぶ。
 彼女の……碧羽の肩が揺れたのが、よく分かった。
「忘れたくなんて、ない。他の全てを忘れても……。碧羽、君のことだけは、忘れる訳には いかないんだよ、僕は」
「……」
「僕は、君を不幸にした」
「ちがっ……」
「違わないよ」
 今度は僕が、碧羽の言葉を遮った。

「僕は君にとって、最低の夫だった」
 僕は静かに、そう言った。
 記憶は僕を遠い過去に引きずっていく。
              *  *  *
 深紅(あか)い画面。冷水(みず)の音。
 本当に冷えてしまった人の手が、どんなものか、僕はその時初めて知ったのだ。
 永遠に、忘れることすら許されない、僕の罪と罰。

 僕の意識はそこにあった。
              *  *  *
「私は、貴方のお嫁さんにはなれない」
 僕のプロポーズに、彼女はきっぱりとそう答えた。
 その言葉があまりにもさっぱりとしていて、あまりにもさらりと言われたものだったので、僕はしばらく二の句がつげなかったくらいだ。
「な、ど、どうしてッ!?」
 やっとついだ言葉がそれなのだから、彼女の返事はその頃の僕には、相当予想外だったのだろう。
 そんな僕に、彼女はどこまでもあどけなく、微笑んでいった。
「だって、私には社長婦人なんて、無理だよ」
 そう言った時、彼女は初めて少しかなしそうな顔をして、僕を見つめた。とても澄んだその瞳を、僕はよく覚えている。
「そんなの、関係ない。碧羽のこと、愛してるんだ。碧羽には会社(うち)の嫁になって欲しいわけじゃない。僕の妻になって欲しいんだよ」
 僕は必死だった。

 僕は、いわゆる一流企業、大手玩具メーカーの跡取だった。
 そろそろ結婚しろと言わんばかりに、見合い話が持ち込まれ、僕は逃げたいくらいに気が滅入っていた。
 しかし僕は会社から離れるつもりはなかったのだ。
 仕事はとても忙しかったけれど、やりがいのあるものだったし、何より目標があった。
『いつか、世界中の子供たちに夢を与えられるものを作りたい』
 そんな子供じみた夢を僕が語るとき、碧羽はいつも嬉しそうな顔で聞いていた。

 僕は彼女に会うまでは、結婚は会社のためにするもの、という半ばあきらめにも似た感情しかなかった。
 しかし、そんな彼女と出会ってその感情はすっかり消え去った。
 それまでにだって、恋愛と呼ばれるものは、おそらく人並み以上にしてきた僕が、彼女以外見えなくなってしまったのだから、自分でも驚いた。
 彼女に出会った僕は、もう、どうしても会社のために結婚する気にはなれなくなってしまったのだ。

「そうもいかないでしょう?」
 相変わらず穏やかに微笑んで、彼女は決してYESとは言わない。
 僕がもうすでに何度か見合いをさせられていることも、彼女は知っているはずだった。
「恋愛は自由かもしれない。でも、気持ちだけじゃ、どうにもならないことって、あると思うの」
 その穏やかさに潜む不思議な翳りが、その時の僕には理解出来なかった。
「それじゃあ君は、僕が他の人と結婚したら、どうするつもりなのさ? 僕のことなんて忘れて、別の男と結婚するの?」
 彼女のあまりにも冷静な判断に少なからず憤りを感じて、僕は彼女に訴えた。
 しかし彼女は、ただ哀しそうに笑って、首をふって言った。
「私は、貴方が結婚したら……そうね。何処か貴方も知らない場所に行こうかな」
「そんなところに行って、どうするの?」
 僕はむすっとした表情のままで彼女に問い掛ける。
 彼女は一瞬きょとんとして、その後自分を嘲るかの様な笑いを浮かべて言った。
「貴方のことを想い続けるの。死ぬまでずっと。それで一人で穏やかに死にたいな……」
 それを言ったのが彼女じゃなかったなら、恨み言の1つも言いたくなるような言い訳に聞こえたかもしれない。
 けれど、彼女は本当にそういう事をやる人なのだ。
 僕は急に彼女に当たった自分が恥ずかしくなった。
 冷静に考えれば、きっと彼女の言っていることの方が正しいのだろう。
 しかし僕は、どうしてもその現実を受け入れたくなかった。

「碧羽……」
 どうすればいいのか、僕には分からなかった。
 どう言えば、いいのだろう。
 言葉はいつでも心を伝えるには足りる事が無くて、人を傷つけたり、自分も傷ついたりする。
 碧羽は何も言わずに、目を伏せた。
「私は、貴方の事を、愛してる」
 夢の中で紡がれた言葉。碧羽は伏せた瞳をゆっくり開く。
「愛してる」
 僕をしっかりと見て、今度は現実の言葉にする。
「ごめんね。それしか、私には、出来ない」
 さっきと同じように微笑んでいるのに、この世の終わりの様に哀しい声。
 けれど世界中を捜しても、こんなにも綺麗だと思える響きは見つからないだろう。

「僕は……?」
 僕は思わず、つぶやく様に言っていた。
「僕は何が出来る? 君に」
 彼女は僕の言葉にゆっくりと、僕の表情を見つめて、そして首を横にふった。
「結婚したいって、そう、思ってくれた。私を愛してるって言ってくれた。それだけでいいの」
 そのまま、眠るように、僕の腕の中に体重を預けた。
 何もかも諦めてしまった。そう、言われたような気がして、ひどく苦しくなる。
 僕は激しく首を横にふった。感情が暴走を始めて、言葉が溢れる。
「やっぱり、嫌なんだ。君を失くしたくない。自分の命と引き換えにしても」
「でも、……」
「分かってる。どんなに思っても、気持ちだけじゃどうしようもない。それは碧羽が言うとおりだ。でも、気持ちがなかったら、きっと自分をなくしてしまう。それも、事実だよ。 たぶんここで君を手放したら、僕は僕じゃ無くなる。一生、後悔する」
「……」
「碧羽。君は、後悔せずにいられるの?」
「……」
 彼女の答えはない。表情が、見えない。
「碧羽」
 僕は名前を呼ぶ。沈黙が、その場を支配する。

「……きっと、後悔する」
 やがて彼女はぽつりと言った。
「でも、自信がないの。私……」
 彼女の表情に、何処かがひどく疼いた。
 僕は、彼女にこんな表情をさせたくて、こんなことを言っているのではない。
「自信なんて、無くてもいい。僕は碧羽にいつも、笑っていて欲しいんだよ。そのためなら、何でもする」
 僕は強く言った。
「愛してる……永遠に。君の事だけは、ずっと覚えている。たとえば僕が死んでしまっても……。来世で君に会う為に」
「……」
「僕は永遠に君を愛してる。……ずっと、そばに居て欲しい」
 もう一度、プロポーズする。

 碧羽は一瞬の躊躇の後、ゆっくりとうなずいた。
              *  *  *
 とても、愛していた。
 あの時の言葉に、嘘は無かった。
 今でも、想いは変わらない。
 それでも、現実は……彼女の恐れたそれは、彼女を蝕んでいった。
 僕は、それに、気づくことが出来なかった。
              *  *  *
 真夜中。僕はいつも足音をしのばせて、リビングに向かう。
 碧羽には先に休むように言ってあったので、家の中はとても静かだ。
 しかし、その日は違った。

 ざー……っ……
 微かな水の音が、真夜中の家では異様に大きく響いていた。
 浴室からだ。
 僕は不信に思い、リビングに向かう前に、浴室を覗いた。
 しかし、そこにあったのは、想像だにしなかった光景だった。
 深紅(まっか)な画面。冷水(みず)の音。
 その光景を、私は一瞬、認識することが出来なかった。
 緋(あか)い、紅(あか)い、美しい程に澄んだ水の中に、冷えきった彼女の左手が浸かっていた。
 あまりにも、美しい。残酷なまでの、光景(けしき)。

「……碧羽?」
 僕は何処か現実のものとは思えずに、ふらふらと彼女に触れた。
 恐ろしく、冷たい。
「碧羽っ!」
 抱きかかえて、驚いた。彼女は、こんなにも、重たかっただろうか?
『死体は重いんだよ』
 ふと、そんな言葉が耳元で囁かれた様な気がして、僕はぞっとした。

 後のことはほとんど覚えていない。無我夢中で救急車をよんで、気づくと病院に居た。
『桜の樹(き)の下には屍体(したい)が埋まっている!』
 病院に居る間中、何故か、そんなせりふを思い出していた。
 前に読んだ、小説だ。作家の名前さえ忘れてしまっているというのに、言葉だけが鮮やかに浮かんできた。
 彼女が、死んでしまったら……。桜の下に埋めるのもいいかもしれない。
 彼女の青白い面輪をぼんやりと思い出しながら、そんなことを思っていた。
 あまりにも美しい、あの人ならば……。桜はさぞ美しくだろう。その桜の樹のもとで、首でもつって、死んでしまおうか……?
 本気で、そう思っていた。

 幸いと、言うべきなのだろう。
 彼女は一命をとりとめた。しかしそれと同時に。もう1度、彼女の声を聞く事が出来るかどうか、それすら分からなくなった。
 現実の彼女は、今も病院で眠っている。

 植物状態。

 それが、今の彼女。
              *  *  *
 彼女が自殺をはかって、僕はよく狂わなかったと思う。
 それも、彼女の残した文章によってだった。
              *  *  *
『遺書
 貴方に何も言わず、一人で決めてしまったことを、深くお詫びします。でも私にはもう、耐える事が出来なかったのです。
 私は、貴方の夢が好きでした。夢を語る時の貴方を見ている時間が、とても好きでした。私は、貴方の力になりたかった……。貴方に結婚を申し込まれた時、だから私は最初、断わろうと思いました。私は、貴方の邪魔にはなっても、力になることなど出来ないと、どこかで分かっていたのです。それなのに……私は受けしてしまいました。貴方と一緒に居たかった。ただそれだけなのです。貴方の邪魔になるかもしれないと分かっていながら、それでも私には貴方と離れる自信は到底ありませんでした。私のわがままだったのです。
 けれどは、やはりここは、私には相応しくない場所でした。貴方だけを信じて待つには、ここは広すぎて、淋しくて、私はいつ自分が狂うのではないかと、そればかり考えていました。このままでは貴方に迷惑をかけてしまう、そう思うと、もう何処にも居場所が無いと痛感するのです。そして夜毎、闇が私を飲み込もうとするのです。
 ごめんなさい。私は、もう、耐えることが出来ません。どうか、許してください。ごめんなさい。ごめんなさい……』
              *  *  *
 ただ一人、夜の闇におびえて、僕を待っていた碧羽。
 僕以外の誰も頼ることが出来ずに、とうとう追い詰められてしまった碧羽。
 それは『死を選ぶよりも過酷な生』。
 彼女は、開放されたのだろうか?
 もしも許されるのならば。僕は今すぐにでも彼女の生命維持装置を切って、自分も追いかけてしまいたいと、そう、何度も思った。
 けれど出来なかった。
 彼女をどれだけ苦しめたのか。僕は、その報いを受けねばならない。彼女が味わった『死を選ぶよりも過酷な生』。それによって。

 それが、彼女を支えきれなかった僕への、罪と、罰。
              *  *  *
「貴方の責任(せい)じゃ、ない。始めから無理だった。ただそれだけ……」
 碧羽はつぶやいた。
「それだけなの……。私たちは錯覚してただけなのよ。私たちは確かに恋をしていた。でも、愛じゃなかった。それだけ」
 どこか気丈さを装って……それは何年ぶりかに聞く、変わらぬ碧羽の言葉だ。
「永遠の愛なんて、嘘。そんなの全部……全部、嘘なの」
「嘘じゃない」
「嘘なの!」
 泣きそうな顔をして。それでもまっすぐな瞳で。
 心を貫く刃のような鋭さで。
 彼女はそう、つぶやく。
 決して無邪気ではないけれど、透き通る純粋さで。
 その哀しい程の強さで。
 そう、言い募る。
 それは妖精の羽が持つ、透明感と色彩を帯びた、少女の表情。

「だって、愛は、何も言わなくても永遠のものでしょう? それなのにわざわざ『永遠の』って付け加えるなんて、無意識に嘘だって認めてるだけじゃない」
「……」
「お願いだから、忘れて……。私の事なんて、忘れて……。貴方を、最後まで信じられなかった……。こんな私のことなんて、忘れてよ……」

 彼女の泣き顔を見ることは、今までほとんどなかった。穏やかな性質に反して、彼女が芯が強い人だということは知っている。
 しかし今、ここにいる彼女は、なんてもろいのだろう。
 自分を責めて、すっかり傷つききっている。彼女は何も、悪くはないのに……。あまりにも、無防備だ。
 それはきっと、僕が彼女をそうしてしまったのだろう。
「……分かった、碧羽。いいよ。すべて忘れる。その方が、君は楽になれるんだね?」
 僕は素直に、碧羽の言葉を繰り返した。
 碧羽は黙って、うなずく。
 それで碧羽が少しでも楽になるのなら、僕は何だってする。けれど、譲れないものだってあった。
「碧羽……でも、僕はまた、君を愛すよ」
 僕は、つとめて穏やかに、碧羽に言った。
 碧羽は驚いたように顔を上げる。
「これだけは、譲れない。僕は、君がいるから『僕』なんだよ」
 僕は確信を持って言った。僕が『忘却の森(ここ)』に落ちたのは、まぎれもなく、それが原因だと。
 彼女を失った事で、僕は自分を失った。仕事に対して持っていた夢も、失った。だから、ここへ来た。
「碧羽。僕は、君がいなければ『忘却の森』から出ることなんて出来ない。君がいないなら、僕は、僕じゃない」
 碧羽を見つめて、静かにそう言う。彼女はひどく哀しい表情で、首を横にふった。

「私は……戻れない。だって、私は失くしてしまったんだもの……」
 そう言うと、彼女は私の手を取った。そして自身の左手首に、僕の手を置く。
 僕は、息を飲んだ。
 彼女はふっと、悲しげに笑う。
「脈が、無いでしょう? 私は、生きる術を忘れてしまったの……」
 すべてに絶望した、声。僕は言葉をなくす。
「私にはもう、分からない。どうすれば生きていられるの?」
 心からの問い。それはきっと、死を選ぶ直前の彼女の問い。
 僕はその答えを探した。彼女の問いに、答えたかった。彼女に死を選ばせてしまった、その問いに。

「……碧羽の事を、愛していたいから、僕は生きている」
 僕は長い沈黙の後、やがてそう言った。
 それが、僕の答えだった。
「碧羽、君に、そんな顔をさせたくない。もう2度と。碧羽には、いつも笑っていて欲しいんだよ」
 すべて伝えることなど出来なくても、彼女に、伝えたいと思った。僕なりの真実(こたえ)を。
「碧羽がそこに居ると思うだけで、僕は何でも出来るような気がしてくる。……とても単純だけれど。その逆に、碧羽がそこに居ないなら、何も出来ないような気がしてくる」
 言葉が気持ちに追いつかなくて、哀しくなる。それでも精一杯、自分の気持ちを伝える事が、今の自分に出来るすべてだった。
「碧羽が幸せそうな顔をしていると、僕は嬉しくなる。碧羽のそんな幸せを、守りたいと思う。僕にとっては、そうすることが、生きていることなんだ」
 嘘も偽りも無く。
 心の底から涌いてくる言葉を、そのまま口にする。
 それが僕にとっての、限りない真実。
「碧羽が、これは愛じゃないというなら、それでもいい。これからでいい。碧羽の事を、愛したいんだ」
 たった一人の人の為に、切実にそう思う。
 すべてに変えても、その人の為に生きたいと思う。
 それが、僕の存在している理由。

無心に。
願う事。伝えたい事。
言葉に出来ないことを、それでも精一杯伝えたい。
分かって欲しい。誰でもない、唯一の、その人に。
分かりたい。誰でもない、唯一の、その人を。
その人に、世界で一番幸せでいて欲しい。
他のすべてを犠牲にしても、その人の為だけに在りたい。

そう想うことが、「愛」ではないのだろうか?

 彼女は突然、眠るように気を失った。そして僕の意識も遠ざかる。
              *  *  *
かなしい。
 何故かとても。
カナシイ。
   すべて 何処かに堕落(お)ちていく。
悲しい。
    ここは、とても  ツメタイ。  。。 。 。
哀しい。
       壊れていく     何もか  ももも。
愛(かな)しい。
 貴 方  は   何処 に い   いる の   ?

もう 何も  わ 分かか  ない。。 。
何処か  に                沈 んで
         いく   くく。 。 。。 。
              *  *  *
 混沌とした記憶。
けだるい……  夢…… 碧羽…… 眠る……
僕の意識は、現実(ここ)へ。   君の…… 意識は……?
              *  *  *
 目が覚めたのは、病院。
 機械音。薄いカーテンが朝の日に透かされている。
 白いベッドのすぐわきに置いた椅子。そこが、いつも僕が眠る場所。
 僕はいつものように伸びをして、体を起こした。確かに命がある、碧羽(つま)の顔を見て、安堵と落胆をかみ締める。
 いつもと同じ1日が、始まろうとしている。

 何故か、とてもだるい。最近あまり眠っていないからか。
 何か夢を見た気がするのだが、思い出せない。
 ただ、碧羽が居た気がする。

とても、哀しい夢。

 朝が来て目覚めると、いつも思う。一生、こんな生活を続けるのだろうか?
 しかしそれも、僕の報いなのだろう。

「碧羽、おはよう」
 答えが無いと分かっていても、僕はそう言い、カーテンを開ける。朝日が部屋に入って、白い彼女の輪郭が浮かび上がった。
 そのたびに、彼女は天に一番近い場所に居るのだと、そう痛感する。
 僕はもう1度、椅子に座った。
 彼女の顔にかかった黒髪をかきあげ、ただ無意味に撫でる。
 まるで少女のように無心に眠り続ける彼女。それはよく出来た人形の様に、生気を感じさせない。

 絶望は、心に積もると、何も感じなくさせる。
 そんな事を、肌で知るようになっていた。
 時々、自分というものが、いないような気がしてくるのだ。器だけ。そんな気がする。

「……碧羽?」
 唐突に、何か……違和感があった。
 突然触れていた彼女の輪郭に、懐かしい感覚があった。

 何度、この瞬間(とき)を待ち望み、そして絶望してきたことか……?

「碧羽……っ!」
 思わず身を乗り出す。
 その時、彼女に、確かに変化があった。

「……けい、や……?」
 彼女は微かに、けれど確かに、僕の名を呼んだ。
 ゆっくりと、その、澄んだ瞳の色が。
 僕を、とらえる……。
              *  *  *
「……ただいま」
 彼女が目を覚ましたのは、奇跡だった。
 医者達は大騒ぎをし、しばらく彼女の周辺は慌しかった。
 その騒ぎが一段落して。彼女がぽつりと言った。
「……? おかえり。どうしたの? 急に」
 僕がそう聞くと、彼女は驚いたような表情をした。
「……覚えて、無いの?」
「……何を?」
 見当がつかなかった。
「……そっか。」
 彼女はふっと考え込むような表情をして、それから何か思いついたように微笑んだ。
「そっかぁ……」
 そう言って、おかしそうに笑い出す。
「碧羽?」
 僕は訳が分からず、彼女を覗き込む。

「ごめん、ね……。もう、ずっと、ここに居るから……」
 ゆっくりと、言葉をかみ締めながら、彼女は言った。
「ずっと、覚えてるから……」
 日の光が、彼女を何か神秘的に見せる。
「私の、生きる術は、ここにある。」
 自信に満ちた声が、何故か僕を安堵させた。
              *  *  *
深い深い、お伽話の森の中
蒼く澄んだ湖に住む
彼女はその妖精の、透きとおる羽の色
              *  *  *

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