耳を澄ませて聴いてごらん
ほら
少女たちがうたう
魂鎮唄(たましづめのうた)がきこえるよ
第一章 萌黄(もえぎ) 〜洗う少女〜
流れる水のように 清らかに
そのままにありたいと
そう願うのは贅沢ですか?
萌ゆる若葉のように いつまでも
美しいままの心でありたいと
そう想うのは 無理なのですか?
見えない未来 時間に消えた夢
穢れた自分を認めずに
ただもがきつづけている私の
これはただの弱さですか?
/夢・希望・現実 …… そして、絶望・穢れ
いつからだったでしょうか。私がこんな風に感じるようになったのは。明確には思い出すこともできません。
ただ今の私に分かるのは、私にはもう、これ以外どうすれば良いのか分からなかったということだけです。
今、私は病院にいます。私はこれで救われるのでしょうか?
* * *
私はごく普通の高校生です。今年は大学受験もひかえ、すこし空気がぴりぴりしているように感じます。進路希望の話も毎日飛び交っています。
みんなは一体、どんな将来を見つめているのでしょうか。
夢
私にも、昔はたくさんありました。
ケーキ屋さん、歌手、ホームヘルパー。童話作家に手話通訳士。上げ出せば、きりがありません。
じゃあ、今は?
何に、なりたいのでしょうか。……正直、分かりません。
やりたいことはきっと、たくさんあったはずなのに。いつのまにか見つけることすらできなくなっている自分に気づいてしまいました。
私はいつ、夢を失くしたのでしょうか。
私はいつ……。
私は、いつ、「自分」を感じられなくなってしまったのでしょうか。
分かりません。
* * *
「若菜ぁ〜、進路希望調査、もう提出したぁ?」
友人たちはみんな、次々と自分の未来を見出していくように思えます。
「ううん、まだ……」
それにひきかえ、私はもうずっと足踏みをしている状態です。
やりたいことはたくさんあったはずなのに。今ではそれすらわかりません。私は一体、どうしたかったのでしょう。
「そっかぁ。困るよね〜 私さぁ、専門学校行きたいんだけど、先生は大学行けっていうし ……若菜は頭いいもんねぇ。やっぱり四大?」
何だかんだ言って、みんなそれぞれのビジョンを持っています。彼女もまっすぐに未来を見ているようです。
「うん、一応……まだ、将来やりたいことなんて分からないし……。とりあえず、四年制の 大学にでも行ってみればって、親にも先生にも薦められてるし……」
私には、将来のビジョンなんて何もありません。とりあえず、未来を決めることが怖くて、先延ばしにしようとしているだけです。
「そっか〜 お互い頑張ろうねぇ」
そんな会話が、休み時間ごとに繰り返される教室……。
私はたまらなくなります。
自分のばかさ加減を見せつけられているようです。
周りは私を「優等生」だと言い、「進路も問題なくていいね」なんて言います。
けれど……「優等生」って、何なのでしょうか。進路において「問題」がないって、どういうことなんでしょうか。
私にはそれは、とてもいいこととは思えません。
私は逃げているだけです。
何をしたいのか、分からなくて。どうしていいのか分からなくて。「とりあえず」間違いの少なそうな道を選んで進もうとしている。
それの一体、どこが「問題がない」のでしょうか。
それよりも、一生懸命に悩んで。考えて。未来をきちんと見つめているみんなの方が、ずっとずっとすごい……。私なんかよりもずっとずっと、輝いていて、ちゃんと「生きている」と言えるのではないのでしょうか。
それじゃあ、私は「生きていない」のか?
そうかもしれません。私は、自分が本当の意味で「生きている」のかどうか、分かりません。
私は、もう、死んでいるのかもしれません。
* * *
「また手、洗ってるの?」
私が自分の異常を自覚しはじめたのは、友人のそんな言葉でした。
以前から、私は潔癖症な方で、部屋もきちんとしていなくては気が済まないたちだったのです。ですから、はじめは気づきませんでした。
友人に言われて、私は初めて、自分が異常なまでに手を洗うくせがあることに気づいたんです。
それでもはじめはそんなに気にはしていませんでした。
それが間違いだったのかもしれません。
* * *
昼食前でした。私はいつものように、友人と机をあわせて、お弁当を広げました。けれど、どうしても食事する気になれなかったのです。
友人は不思議そうな顔をしていました。
「あ、手洗うの忘れた〜 みんな先食べてて」
私は仕方なくそう嘘をついて、席を立ちました。
手は机を合わせる前に、もうきちんと洗っていたのです。
でも、どうしても、昼食に手をつける気になれませんでした。机を合わせたときに、手が汚れたような気がしたのです。
私はそのまま、水道に行って、もう一度石鹸でよく手を洗いました。
* * *
「まだ進路希望調査を提出していない者は早く提出しなさい」
朝のHRで担任の先生がそう言いました。みんな、次々と自分の進路を記入した用紙を提出していきます。
私も提出しました。すべて、親が薦めた大学です。
私は親や先生のいいなりのいいこちゃんに収まっていたいなんて思いません。きっとそういう態度が「優等生」のレッテルを貼らせているのでしょうから。
私は、自分のそういうレッテルを忌み嫌います。
「優等生」
なんて嫌な響きなんでしょうか。まるで「臆病者」と言われているような気がします。
所詮、親や先生に逆らえない。「優等生」なんて言葉は「臆病者」の同義語です。
そう思っているのに、その枠から抜け出そうとしない私は、「臆病者」の極みなのでしょう。最低最悪です。
いつのまに、私はそんな臆病者に成り下がったのでしょうか。
そんなことを考えているうちに、急に気分が悪くなってきてしまいました。吐き気がします。
「若菜ちゃん、顔色、悪いよ?」
突然かけられた言葉に、私は驚きました。
私の「進路希望調査表(おくびょうもののしょうめい)」を回収してくれたクラスメートが心配そうに私の背中をなでながら私を見つめています。
「ちょっと、体調が悪くて…… 保健室に行こうと思ってたの…… 一限の先生に言っておいてもらえる?」
私は湧きあがってきた吐き気を押さえてそう言うのが精一杯でした。一刻も早く、そこから立ち去りたくて仕方なかったのです。
「うん。それはいいけど、一人で大丈夫?」
クラスメートは相変わらず、心配そうに私に言います。
「うん。平気……」
そう言うと、私は立ちあがって教室を出ました。
もう、限界でした。
私は保健室に行く前に、お手洗いで思いきり嘔吐しました。吐き気がようやくおさまったのは、胃の中のものをすべて吐きだした後です。
それから必死で手を洗いました。顔も洗いました。とにかく、今自分が洗えるところはすべて洗いたい気分だったのです。
そして、何事もなかったようにそのまま保健室で休ませてもらい、その日はそのまま一日を過ごしました。
保健室の先生は私を見るなり、驚いてすぐに早退するかといいました。それほど、私は青い顔をしていたようです。自覚はあまりありません。
保健室で横になっている間中、私はじっと天井をにらみ続けていました。
もう、何もわかりませんでした。
クラスメートが私の背中に触れたとき、私はひどい寒気と不快感に襲われました。あんなに優しくしてくれたクラスメートに、もう少しで「お願いだから私に触らないで!」と叫ぶところだったのです。
何ということでしょうか。嫌なことをされたのならまだしも、彼女は心底、私のような者のことを心配してくれたというのに……。
それのみではなく、私はその不快感から逃れるために、手や顔を洗ったのです。最悪です。
そんなことをぐるぐると考えているうちに、また気持ち悪くなってきてしまいました。
「先生……すみません、気持ち悪いので、お手洗いに行ってもいいですか?」
私は我慢できなくなって、先生にそうに言いました。
先生はすぐに了解してくれたので、私はまたお手洗いへかけこみました。もう、吐き出すものなど何もないのに……。
私は胃液を吐き出しながら、泣きました。
何が悲しかったのかは、よく分かりません。
とにかく何かが悲しくて、私は泣きました。
* * *
その日の夜。私は夢を見ました。小学生の頃の夢です。
私は作文を必死で書いていました。テーマは「将来の夢」
その頃の私は初めて知った歌の世界に夢中でした。将来は歌手になるんだと、強く思いこんでいました。
私は嬉々として作文を仕上げ、学校へ行ったのです。その作文は、その日の授業参観で読むことになっていました。
学校から帰ってきて、私は母に叱られました。「歌手なんてろくな職業じゃない。第一、そんな夢みたいなこと言ってないで、もっと現実を見なさい」と。
私はその日から、歌をうたわなくなりました。
もう、ずっと忘れていた昔の記憶。
なぜ、そんな夢を見たのでしょうか。
私は夜中に目が覚めて、お風呂に行きました。なぜか自分の体中に泥がついているような気がして、洗わずにはいられなかったのです。
そしてまた、吐き気に襲われて、私は一晩ろくに眠れませんでした。
* * *
思えば、私が将来に夢を持たないようになったのは、あの小学生の日のことがきっかけだったのかもしれません。
けれど、それも原因の一つでしかないように思えます。私はきっと、絶望したのでしょう。
何に? ……自分に。
「夢みたいなこと」といわれたとき、私は何も言い返すことができませんでした。
確かに、今思えば、親が言うことはあながち間違っているとは思いません。「歌手」になるなんて、とても難しいことです。
けれど……。
それまでの私は信じていました。努力すれば、必ずなれると。けれど親に否定された時、私はそれをあきらめることを自分で決めたのです。
親が何か言ったからなんて、ただの言い訳です。
私は、私に失望したから。自分には無理だと思ってしまったから。だから夢を見つづけることをあきらめてしまった。
それだけのことだったのです。
* * *
私の潔癖症は日に日にひどくなっていきました。それは、私自身自覚していたのですが、その頃は決して異常だとは思っていませんでした。
食事の前、私は椅子を手ではなく腕で引くようになりました。
電車に乗っているとき、つり革を触るのが嫌になりました。
人に触れられるのが怖くなりました。
・・ ・ ・ ・・ ・ ・・ ・
自分がおかしいと気づいた時には、もう、手遅れでした。
* * *
とうとう、学校に行くこともできなくなりました。
私は誰にも、何にも、触られたくないし、触りたくなかったのです。何かに触れてしまったら、手を洗わなくては気が済みませんでした。
当然のことながら、私の手は、その時にはすでにぼろぼろでした。
それでも。
それでも止めることなどできませんでした。石鹸がどんなに荒れた手にしみようと、私は洗い続けるしかありませんでした。
そうしなくてはならないという脅迫観念のようなものもありました。しかし、何より自分が気持ち悪いのです。
何かに触れた後、そのままにしておくと、手に異様な違和感を覚えます。それでもどうにかそのままにしておこうとすると……
私は、自分の手が朽ちていくような気がしてなりません。
それはまるで、私のように。
夢を見ることもできずにいる私のように。何かに絶望し、そして、穢れてゆく……その縮図を、己が手に見ているようです。
そうだ! 私の心はもう穢れてる!
あの純粋だった頃。
空を見て綺麗だと思って、夢を見て鳥のように自由だった。私はもう……
嫌だ!
どんなに叫んでも。どんなに抗っても。
もう、私はあの頃の私じゃない。夢も見られない。否……
「見られない」んじゃない。見るのが怖い。
夢を見て、自分の可能性と照らし合わせて。そうしてあきらめていくのが。
怖い。自分がそれだけ純粋に、夢も見られないことを自覚するのが。
どうすればいい? 私は、どうすればいいんだろう? 穢れたくなんてない。
純粋でいたい。それなのに……こんなにもみじめで。こんなにも情けなくて。
これが大人になるということなんだろうか? そんなの、違う。
違う! 違う!! 違う!!!
私は……。
見ると、机についていた私の手は、黄緑色のねばねばとした液体で濡れていました。
「いやぁぁぁ!」
それが幻覚だということは、私にも分かっていました。これは、私の心が見せる幻。それでも……。私には、耐えることなどできませんでした。
その幻はあまりにリアルで、そして、あまりに、今の私をうつしだしているように感じたから。
私は……もう……穢れたくなかった。
私は自分の部屋から飛び出しました。
急いで階段を駆け下りて。誰もいないキッチンへ。
そして……
そして私は、包丁を手にしました。刃が鈍く太陽の光を孕んで、それはあまりに穢れない美しさで……。
私は、それを、己が手に突き刺しました。
* * *
もう、何も、わかりませんでした。
ただ無我夢中でその刃を自分に突き刺しました。
もう、何も、わかりたくありませんでした。
今、私は病院にいます。
私はこれで救われるのでしょうか?
* * *
第二章 縹(はなだ) 〜貪る少女〜
どこまでも どこまでも 続いてく
高い 高い 空の彼方
アタシがホントに欲しいモノは
そこにある気がしてたから
幸福の青い鳥
誰にも届くことなどない
たった一人のアタシの懺悔
幸福の青い鳥
アナタは聞いてくれる?
/欲望・狂気 …… そして、愛
アタシの好きなもの。
綺麗なもの。とくに綺麗な空が好き。どこまでも、どこまでも透き通っているような。そんな錯覚をみせてくれる空が好き。
絵を描くこと。真っ白なキャンバスに、思うままに絵の具をのせて。それはアタシの夢になるから。
だからアタシは空の絵を描くのが好き。
その時だけ、アタシはすべてから開放される。
* * *
リビングではすでに夕食の準備ができていて、良い匂いが漂っている。でも、アタシは口が裂けてもおいしそうなんて言わない。
そんなことを言っても仕方ないから。
アタシはそのまま、リビングには足を踏み入れず、自分の部屋に向かった。
かばんからコンビニのビニール袋を取り出して、中身を机の上にばらまく。
おにぎり三個、サンドウィッチニ袋、おすしの詰め合わせ、チャーハン、菓子パンに五百ミリリットルのペットボトルがニ本。それにお菓子。
今日はバイト代が入ったばかりだから、なかなか豪華な夕飯のメニュー。
それでも今のアタシにはちょっと不足。
あともうニ・三個お弁当がないと、衝動はおさまらないかもしれない。
これがアタシの夕食風景。
アタシはまず、シャケのおにぎりを手に、真っ白なキャンバスに向き直った。
何を描くかは決まってる。
空の絵。真っ青な、綺麗な空の絵を。
そうやって描きためて何になるのか分からないけど。でも、アタシは空の絵を描くのが一番好き。
こんなアタシでも、綺麗な気持ちになれる気がするから。
アタシは今度はハムのサンドウィッチの袋を開けた。
* * *
アタシは、自分で言うのもなんだけど、結構カワイイ。
性格だって明るく見られるから、友達だって多いし、ボーイフレンドに立候補してくれる男の子たちにも困らない。
でも。
でもアタシはみんなでワイワイガヤガヤ騒ぐのは、ホントはあんまり好きじゃない。
ホントに好きなのは絵を描いてる時間。もっと好きなのは眠りに落ちる寸前の、あの感じ。
ふわっと宙に浮くような。アタシみたいなのでも、神様に見捨てられてないんだって、妙に安心する。あの、感じ。
それがアタシの至福の時間。
でもきっと、今の友達にこんなこと言っても、誰も分かってくれない。
だからアタシはいつでも、自分を隠す。こんな根暗な自分を隠して、明るい「風花」という女の子を演じる。
そうすることでしか、アタシは「アタシ」を保てないから。
そうしなくては、アタシは「アタシ」でいられないから。
だってアタシは、ここに在ってはいけないものなのだから。
* * *
生まれてこなければ良かったなんて思わない。現世(ここ)はそれなりに楽しくて、臆病なアタシは消えることなんて考えられない。
それでも。
時々思う。アタシはどうしてここに在るのか。だって、アタシは在ってはいけないものなのに。
アタシの母親という人は早くに亡くなったらしい。
物心ついた時には、父と、今の義母(はは)と、そして異母弟(おとうと)がいた。
アタシは完全な邪魔者。それでも義母は義務教育を終えるまでは、必要最低限の食事も、衣服も、すべて与えてくれて。無視こそされていたものの、暴力を受けたこともない。義母には感謝していいくらいだ。
異母弟はとてもかわいいし。アタシはきっと幸せ者。
それでも。
時々思う。アタシはどうしてここに居なくちゃいけないのか。
アタシは、ここに居るべき人間じゃないのに。
だから、アタシは義務教育を終えて、義母に言われてホッとさえしたのだ。
「もう、あなたのことは何もしない。勝手にしなさい」
アタシは、その言葉に心底ホッとしたのだ。
本当は、家も出て行くつもりだった。でも、アタシはなぜか出て行けなかった。
……どうして?
分からない。でも、アタシはどうしても出て行くことができなくて、まだその家に住んでいる。
だから夕飯は自分で買ってきて。そして、キャンバスに向かって食べる。
義母には申し訳ないけれど、でも、なぜかここから出ていけないから……アタシにできるのは、せめて影のような存在であること。
義母は何も言わない。そんな義母に、アタシは本当に感謝しなくてはいけない。
だから……。
アタシは言えない。自分が精神科に通ってるなんて。
アタシは、言ってはいけないのだ。摂食障害だなんて。
* * *
アタシは食べる。とにかく食べる。食べて食べて、限界まで食べて、そして吐き出す。……過食症。
何て無意味。でも、そうせずにはいられない。そうしないでは、アタシはアタシを保っていられないから。
医者には家族関係に原因があると言われた。でもアタシはそんなこと信じていない。
だって、アタシは、義母に感謝している。
こんなアタシを、ちゃんと養ってくれた。今だって、何も言わずにここに居させてくれる。
それなのに、どうしてアタシが義母を恨まなくちゃいけないのだろう?
アタシは、医者の言うことなんて、信じない。型にはめようとする医者なんて、信じない。
でも、一向に、アタシの過食は治らない。
* * *
吐いて。吐き出して。すべて。何もかも。
このまま、アタシ、死ぬのかなって思ったことだって、何度もあった。
* * *
「何やってるの!?」
ある日、とうとうアタシの異常な行動に、義母が気づいた。
いつものように、トイレで食べたものをすべて吐き出しているところを、見られてしまったのだ。
それ以来、アタシはほとんど何も口にしていない。
お金はすべて義母に取られてしまった。当たり前か。
アタシは何もする気になれなくて。ただぼんやり部屋の窓から外を見ている。
今日も、空は高くて、そして蒼い。
もう、何も食べる気すら起こらない。これでようやく過食から抜け出せるのだろうか? だとしたら、本当に義母さまさまだ。
アタシは一生義母に頭が上がらない。
でも……。
ねぇ。お願い、誰か止めてよ。
イライラするの。アタシを狂わせようとする、この感情を。
ねぇ。お願い。誰か、止めて……。
このままじゃ、アタシ、ホントに狂っちゃう。
それくらい、イライラしてるの。
ねぇってば!
お願いだから……誰か、アタシを止めて……
アタシは……。アタシは、もう、イヤなの……
あんな地獄はもうたくさん。
ねぇ……お願い。誰か、止めて……。
* * *
アタシは気晴らしに、外へ出た。空も好きだけど、太陽の光がきらきらしているのも、アタシは好き。
こんなに穏やかな気分は久しぶり。アタシはこれで、ようやく開放されたのかな?
蝶々がひらひらと、アタシの前を飛んで行く。
どこへ行くんだろう。アタシも飛びたい。どこかへ。誰も知っている人のいないところへ。
あの蝶々は飛んでいけるのだ。
いいな、と思った。アタシはその蝶々に手をのばす。
ひらひら、ひらひら、羽を優雅に動かして。どこかへ行こうとする蝶々に、アタシは一瞬、本気で嫉妬した。
そして。
アタシは恐れていた。何も、傷つけたくなどなかった。アタシは、アタシが傷ついている、それだけでもう十分だった。
それなのに。
アタシは怖くなって、その場から走り出すことしかできなかった。
そこには無残に羽をむしりとられた蝶々の屍骸。
怖かった。自分が。
ついさっきまであんなにも穏やかだったのに。一瞬にしてアタシは残忍な悪魔になった。
止めることすらできなかった。
それどころか……。
アタシはあの蝶々から羽をむしりとるその瞬間。快楽の感情さえ覚えたのだ。
アタシは息が切れるまで走った。走って、走って。
狂った栄養バランスでどうにか構成されてる自分の体を、極限までいたぶって。そうしなくては、平静を保てなかった。
「ごめっ……なさ……っ! ごめん……ごめんなさいっっ!」
走っている間中、アタシは何かに謝りつづけていた。
殺してしまったあの蝶々に?
それもそう。アタシは何の罪もない蝶々を殺してしまった。一つの命をこの手で奪ってしまった。
それも、楽しみながら。そんな自分が怖かった。
「ごめん……っ」
涙があふれてきて。それでもアタシの懺悔は終わることなどできなかった。
「ごめんなさ……い……」
もう走ることもできないまで、自分の体をいためつけて。それでもアタシは罪悪感を拭い去ることができない。
「ごめんなさい……ッ!」
アタシは声が枯れるまで、謝りつづけなくてはいけないと思った。
殺してしまった蝶々に。そして。
「生まれてきて……ごめんなさい……」
もしもいるとしたならば、神様に。
アタシは謝らなくてはならないと思った。
* * *
アタシの好きなもの。
綺麗なもの。とくに綺麗な空が好き。どこまでも、どこまでも透き通っているような。そんな錯覚をみせてくれる空が好き。
絵を描くこと。真っ白なキャンバスに、思うままに絵の具をのせて。それはアタシの夢になるから。
だからアタシは空の絵を描くのが好き。
その時だけ、アタシはすべてから開放される。
。。。。。。 。。 。 。。。。。 。
アタシの夢って、何なのだろう?
一体アタシは、何から開放されたいんだろう?
* * *
アタシは、本当に狂ってしまったのだろうか?
蝶々の羽をむしりとったあの日から、アタシは自分の衝動を止めることができない。
このままでは、アタシはいつか、人だって殺してしまうかもしれない。
助けて欲しかった。でも、誰に?
アタシには、助けてくれる人なんて、誰もいないじゃない。
友達なんてみんなうわべだけ。アタシをこの地獄から救ってくれる人なんて、いない。
違う、アタシは、人に頼っちゃいけないんだ。これは、アタシの問題なんだから。アタシは自分で解決しなくちゃいけないんだ。
でも、もう、限界……
部屋の外では平和そうに、小鳥たちがさえずっている。
* * *
今日もまた、小鳥がうるさい。
毎日毎日、どうしてこうも入れ替わりたちかわり、来るんだろう。
さえずる小鳥の声は、幸せを象徴しているようで、無性に腹が立つから。
アタシはもう、完全に狂ってしまったのかな。
窓から手を差し出して。ここの小鳥は頭がいいのかばかなのか、分からない。
だってアタシがえさをやってることを知っているんだもの。
そして、アタシがそのあと毎日一匹づつ、殺していることを知らないんだもの。
今日もほら、窓から手を差し出して。アタシの少ない食料をわけてあげる。
そのかわり、アタシにちょうだい。狂気に支配された満足を。
アタシの部屋は薄暗くて。小鳥たちの屍骸があちこちに転がっている。
キャンバスは白いまま。もう何も描く気なんてしない。
空は今でもとても綺麗で。高くて。蒼くて。そしてアタシは狂ってる。
今日も一匹つかまえた。ねぇ、小鳥さん、アタシを助けて……?
アタシは素手で、小鳥の羽根をむしりとった。
悲鳴は。
アタシにはもう届かない。アタシは、もう、どうしていいのか分からない。
涙だけがこぼれて。毎日毎日、懺悔と狂気と、その狭間。
あぁ……でも今日は違う。キャンバスが、あかくなってしまった。
あかいキャンバスも綺麗だけど、でもアタシはこの色がきらい。
だから、大好きな蒼で、塗りつぶすの。
アタシの心のように、汚くならないように。油絵の具で塗りつぶそう。
* * *
アタシは、何が欲しかったのだろう。アタシは、どうしたかったのだろう。
キャンバスをあおく塗りながら。アタシはただ答えを求める。
アタシは……
アタシはこんなになりたくなかった。アタシはもっと幸せになりたかった。
アタシは!
アタシは、愛して欲しかった。誰かに……義母に、愛してほしかった……。
いまさら気づいても遅い。アタシはもう、どうすることもできない。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……
あぁ、蒼い蒼い、アタシはこの色のように、綺麗になりたかった。
* * *
第三章 呉藍(くれない) 〜傷つける少女〜
いつからか どこからか
引かれていた 境界線
わたしたちは気づかぬうちに
それを越えてしまったよう
ただ静かに 音もなく
降り積もる雪を わたしは愛す
崩壊した何か そして散華
そこに見た真実は 正しくないの?
混沌とした意識の中から
今日もわたしは目を覚ます
いつか
わたしもその雪の中に
冷たい雪のその中に
眠ることを夢に見ながら
/罪・罰・崩壊 …… そして、境界
わたしは、電車に乗っていた。
都会の、あの無機質な表情をした大人たちを乗せた電車ではなくて。どこまでも続く、野原を背景に走っている電車。
座席はがらがら。わたし以外にはニ・三人のお客さんだけ。
わたしはその電車に乗って、親友との思い出の場所に向かっていた。
* * *
わたしの親友は、とても綺麗な子だった。
真っ白い肌に、真っ黒な髪。そして真っ赤な唇。わたしはとりわけ、親友のその真っ赤な唇が綺麗だなと思っていた。
「椿、椿は自分の名前の花言葉、知ってる?」
親友はとてもものしりで、わたしにそんなことも教えてくれた。
「椿の花言葉はね。『わたしにとって最高のもの』っていうんだよ」
親友の勝気な微笑み方も、とても綺麗だった。
* * *
普段ならば、わたしは電車に乗るのは好きではない。でも今日は、電車の窓から入ってくる風も心地よくて。わたしは深呼吸をする。
体中にその空気が染み込むのを感じて、わたしは目を閉じた。
あの都会の電車は、どうしてあんなにも、わたしたちに冷たかったのだろう。親友も、あの電車を嫌っていた。
けれど。前に、今わたしが一人で乗っているこの電車に、二人で乗ったときは、親友もずいぶんと嬉しそうだった。
遠足のような、二人旅。
わたしもいつになくはしゃいでいて。あの時は冬だったから、あたり一面の真っ白な光景に感動していた。
駅でココアを買って、それを飲みながら。わたしたちはどこまでも続いていくようなこの線路に、思いをはせた。
わたしは今、その電車に一人で乗っている。
* * *
親友は、誰も知らないわたしの秘密を知っていた。そしてわたしは、親友の誰も知らない秘密を知っていた。
わたしたちははたから見たら、とても仲のいい姉妹のようで。そして恋人のようだとも言われた。
「恋人」と言ってしまうと違和感を感じるけれど。でも、わたしが親友のことを大事に思っていたのは本当だ。
当然かもしれない。わたしたちは、まったく同じ秘密を持っていたのだから。
* * *
「また、切ったの?」
わたしが親友に電話をすると、第一声、親友はそう言ったことがある。わたしはその声に、もう何も言えなくて、ただ泣くだけだった。
それだけで。親友はわたしに何があったのか分かったようだった。
「今、行くからね。ちゃんと、止血しなくちゃだめだよ」
それだけ言うと、親友は電話を切ってわたしの家までかけつけてくれた。
けれど。親友がかけつけてくれたとき。
わたしは、親友に言われた止血さえままならず、ただ己の手首から流れる自分の血をどうすることもできずにいた。
「ばか! 止血しなくちゃだめだよって、言ったでしょう!?」
親友はわたしが呆然として、ただ泣きながら座っているのを見て、そうどなりつけた。そして、わたしの傷の手当てをしてくれた。
その、間中。わたしはただ泣きつづけた。
自分の体を傷つけることでしか、自分の存在を確かめられない。血を流して、
そのあたたかさを感じることでしか。
傷つけて、もう死んでしまいたいと思いながら、誰かに助けを求めずにはいられない。そんな自分が心底情けなくて。
もう、こんな思いをするのは嫌で。 でもどうすることもできなくて。
そんな思いがぐるぐると体中をかけめぐって。わたしはただ泣きつづけた。
* * *
自分の手首を切る。リストカットと呼ばれる行為を、わたしは何度繰り返したのか、自分でもわからない。
傷は浅いものから、深いものまで。いくつかはもう、一生消えない傷になっている。
親友の手首にも、そんな傷がいくつもあった。
わたしたちは、同じ、躁鬱病と呼ばれる病気だった。
* * *
「ねぇ、絶対、死んじゃだめだよ?」
傷を手当てし終えて。親友は口癖のようになっている言葉をわたしに言った。
「絶対、何があっても。椿が自分で死んだら、私、椿のこと軽蔑するよ?」
幼い子に言いきかせるように。親友は何度も何度もそう言った。言っているうちに、親友もぼろぼろと涙をこぼして。
「どうしてもだめだったら、私が椿を殺してあげるから……」
わたしたちは二人で泣いた。
「ねぇ、椿。死なないでね……」
* * *
躁鬱病。最近ではそれは「気分障害」といわれることが多い。
その症状もさまざまであるが、わたしと親友はともに、「双極性躁鬱病」とよばれるものに分類されるのだろうか。
気分が異常に高揚する「躁期」と、逆に異常に低迷する「鬱期」が交互に繰り返されるのだ。
それは月の満ち欠けのように。
寄せては返す波のように。
鬱期にはすべてに絶望してしまい、時に生きていることすらつらくなる。そして、リストカットへの衝動を押さえられないこともある。
躁期は逆にすべてに楽観的になり、冒険的になる。刺激を求めて、何をしでかすかわからない自分を押さえるのに精一杯。
病院で薬ももらっているが、副作用でだるくなったりして、それもつらい。
普通の人からは、こんなのはただの怠慢だと、ただの弱さだと言われるかも知れない。そう言われたら、わたしには返す言葉もみつからない。
けれど。
わたしは。 親友は。
苦しかった。つらくて、死んでしまいたかった。でも、死んではいけないと、必死で己を戒めていた。
二人で歯をくいしばって、必死で生きようと思った。
わたしたちは、戦場で命を共にしている兵士のようだった。
* * *
がたん、ごとん…… がたん、ごとん……
規則的な電車の音が、いつまでも続く。わたしは、親友とこの音を聞いたときも思った。
永遠は、ここにある…… と。
あのとき、真冬の……椿の花が綺麗な時期。
自分の弱さがつらくて。ともすれば手首に刃物を当てようとする自分が情けなくて。もう、自分も。そして親友も。何も傷つけたくなくて。
そんなときに聞いた、あの音が、いつまでも繰り返されている。
* * *
「死なないでね」
それが、親友の口癖だった。でもきっと、それは親友自身が、自分に言い聞かせていた言葉だったのだろう。
親友はいつも、自分を傷つけそうになると、自分の指を噛んでいた。
そしていつもどこか一点を見つめて。何かに怯えている小動物のように小刻みに震えながら。それでも自分に言い聞かせていた。
「死んではいけない……。死んではいけない……」と。
わたしには、そんな親友に何をしてあげることもできなくて。ただ親友のそばで、「うん。うん。」とうなずくことしかできなかった。
親友は、自分の罪について、時々わたしに語った。
自分は、とても罪深い人間だから。だから、何か償いをしなくてはいけないんだと。いつもそう言っていた。
死ぬこと(リストカット)なんていつでもできる。こんな命など、やろうと思えばいつだって絶つことができる。
でも、こんな命が一つ絶たれたところで、何のためにも、誰のためにも、なりはしない。それならば。
生きることが償い。死んでしまえばどんなに楽か。生きることの方がどんなにつらいか、知っているから。だから、生きて、苦しんで。
どうせ何の役にもたたないのなら、それが自分の償いだと。
親友はそう言って、必死で生きようとしていた。
わたしはそんな親友を、同じ人間として本当に愛していた。
* * *
がたんっ……
電車がゆれて、わたしはぼんやりとした思い出から引き戻された。
頭の中に薄いベールをかけられたように、何だかはっきりしない。すべて、どこか遠い過去のような気がする。
それとも、本当にそれはもう、遠い過去になってしまったのだろうか?
そうは思いたくなかった。
親友と過ごした記憶を、わたしは過去のものにはしたくなかった。
たとえ、それが甘えであっても。
* * *
わたしが親友と二人で旅をしたのは、その電車での旅行、一回だけだ。
この電車の終点まで行こうと言って、わたしたちはどんな場所に向かっているのかも知らずに、ただずっと電車に乗っていた。
ゆられながら、たくさん話もした。無言で過ごした時間もある。けれど、それすら、わたしの中ではただ夢のように穏やかな時間で。
わたしは最後のほうはもう疲れていて、いつの間にか眠ってしまっていた。親友はふざけて「お客さん、終点ですよ」なんて、わたしに言った。
ついた場所は、本当に何もない、真っ白な雪に覆われた場所。
何の穢れもない、ただ真っ白な大地。親友の肌の色のようだった。
わたしたちは無邪気に、その中を進んで。人、一人いないところへ行って、遊んだ。二人ともへとへとになるまで、子供のように遊んだ。
電車はもうすぐ、その駅につこうとしている。
* * *
親友は、いつも必死で自分の衝動と戦っていた。もちろん、わたしも戦っていたけれど。でも、親友のあの戦い方には、わたしはいつも驚かされていた。
そんな親友のリストカットを、私は一度だけ、見たことがある。
それは、旅に出る少し前のこと。
* * *
その日、わたしは親友と待ち合わせをしていた。その日はわたしの診察日で、親友はわたしを心配して、診察後に会おうと言ってくれたのだ。
それなのに。
何時間待っても、親友はこなかった。電話もした。誰も出ない。
わたしは急に不安になって、親友の家へ向かった。親友の家は昼間、みんな働きに出ているので、親友しかいない。
わたしは急いで、親友の家に向かった。
不安だった。
わたしは、忘れていたから。親友も、同じ病に苦しんでいることを。
いつもいつも、助けてもらうばかりで、親友に甘えていたから。
タクシーをつかまえて。親友の家にたどり着いて。わたしはチャイムを鳴らした。何度も何度も。
でも何も応答はなくて。わたしは不安をさらにかきたてられ、ドアを開けた。かぎはかかっていなかった。
「沙華(さわな)っ!」
わたしは親友の名を叫んで、部屋に入った。そこは……。
わたしはそれまでにも何度か、親友の部屋に来たことがあった。
親友の部屋は、とてもシンプルで。白と、黒。それにほんの少しの彩りが加わっているだけだった。
けれど。
「沙華っ! 何やってるのっ!」
床にできていたのは血の海。倒れているのはいつもより白くなった親友。手首には深い傷。
わたしはすぐに、救急車を呼んだ。
わたしができることは、止血。これならば、何度も、自分でやってきた。
救急車はまだこない。
「やだ……沙華、しっかりしてよぉ……」
心細かった。親友が、あんなにも生きようとしていた親友が、死んでしまうなんて……。悪い夢のようだった。
一体何があったというのか。
ようやく救急車が来て、わたしは親友と一緒にそれに乗りこんだ。
けれど、不安はぬぐえない。
親友の部屋を出る時、わたしは親友の白と黒の部屋を見て、お葬式みたいだと思った。
* * *
わたしはようやく、思い出の駅にたどり着いた。
季節は晩夏。八月も中旬。けれど暑さは容赦なく、わたしの体力を奪おうとする。わたしはあの時親友とたどった道をたどる。
そしてわたしはようやく、その場所にたどり着いた。
* * *
旅に出ようと言い出したのは、入院中の親友だった。
親友は、意識を取り戻したとき、ただわたしに一言、ごめんとつぶやいただけだった。
リストカットが肉体的のみならず、どれだけ精神的にも本人を傷つけるか。
それはわたしもよく分かっている。だから、何も聞けなかった。
親友が旅をしたいと言うのなら、わたしはどこへでもついて行きたい気分だった。
* * *
雪でひとしきり遊んで。疲れきったわたしたちは、そこに寝転んだ。
そんなに体を動かしたのは久しぶりで、わたしはもうへとへとになっていた。
「……ねぇ、椿」
寝転んでいた親友は、ふとわたしを呼んだ。
「んー? 何?」
わたしは雪の冷たさに、心地よく体を預けたままで返す。
親友は、しばらく何も言わずにぼんやりとしていた。
急な沈黙が、わたしは急に怖くなった。
「何よー、言いかけておいてやめないでよ」
わたしは怖くてわざと明るく言った。体を起こして、寝転んでいる親友を見る。
親友は、ただ真っ直ぐに前を見つめていた。わたしでもない、空でもない。それでもどこか一点を見つめていた。
それはまるで、あの自分の衝動に耐えている時のように。
「ねぇ、椿。私、死にたいの……」
やがてぽつりと、親友はそう言った。まっすぐなままの瞳が、何かを物語っていて、わたしは何も言えなかった。
「私、このままじゃ、きっと罪を重ねるだけになる……。何もかも、傷つけて、すべての人 を殺してしまいたいくらいに、もうどうしようもなくなってるの」
親友の言葉は、とても穏やかだった。
「ねぇ椿、私…… ねぇ、私を、殺してくれない?」
そう、最後に静かに言って、親友は目を閉じた。
わたしには、何も言うことなど、できなかった。
どうすれば良いというのだろう。わたしが、親友を、殺す?
そんなこと、考えてもみなかった。けれど。
他人を傷つけたくなる衝動。それはわたしも知っている。
すべての責任を、自分ではなく他人に求めて。あの、何かに突き動かされているような衝動を、わたしは知っている。
いつも自分の中に押し込めて。どうにかやりすごして。けれど、自分を傷つける行為のように、それが我慢できなくなったら?
きっと、わたしも親友と同じことを望む。
わたしはその時、親友に殺してほしい。
「……どうしてほしいの?」
わたしは静かにそう言った。それ以外、わたしは方法が見当たらなかった。
「これで、心臓を一突き。」
親友はまるで、わたしがそうすることを知っていたように、かばんから刃物を取り出した。
「ごめん」
親友はもう一度目を閉じると、大地にすべての重さを預けたようだった。
わたしはただ、泣くことしかできなかった。
真っ赤に染まった、親友の唇と同じ色の雪を、わたしは二度と忘れられないと思った。それはまるで花のように綺麗だった。
親友は、私が刃物を突き立てると、最期にわたしの目を、しっかりと見つめて微笑んだ。とても、綺麗な涙を浮かべて。
「ありがとう」
それが、親友の、最期の言葉だった。
* * *
わたしは、何が正しくて、何が間違っているのかなんてわからない。
わたしの行為が正しいなんて、思えない。でも、間違っているとも、わたしには思えないのだ。
その境界線はどこ?
わたしには、もう判断できない。こんな考えは、普通の人から見れば、狂っているのだろうか?
それでも、わたしは。
どんなに狂っているといわれようと、わたしは親友にとって一番良い方法を選んだのだという自信はある。
狂っているとか、いないとか。
その境界線はどこ?
どこからどこまでが正常で。どこからどこまでが異常なのか。
こんな曖昧な価値観の中で。わたしは生きなくてはいけない。
わたしはわたしの殺人(つみ)を償うために。
「ねぇ、沙華。沙華は自分の名前の花言葉、知ってる?」
わたしはその場所に立って、目を閉じてつぶやく。
「曼珠沙華の花言葉はね。『悲しい思い出』っていうんだよ」
わたしの周りには、雪の代わりに一面に広がる、曼珠沙華の花があった。
* * *
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