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管理人の独り言

勝手なことを書きます。ご意見・ご感想は掲示板へお願いします。


劇団6番シード「星より昂く」
  Date: 2001-07-07 (Sat)

7ヶ月ぶりになってしまいました。サボりすぎ・・・m(_ _)m

劇団6番シードの芝居「星より昂く」を観た。(築地本願寺のブディストホール7/7マチネ)

前回の「桐の林で二十日鼠を殺すには」はあまり良くなかったのだけど、今回のDMでは、前回公園について「完成度の高い芝居」とか「近年の公演の中でも一、二を争うような公演を打てた」などと書いてあり、「どこがだ?」なんて思って少し期待心が減ってしまっていたのだった。

ファーストシーンはあまりにひどくて引いてしまった。が、それは売れないコメディアンのヘタなコントだった。劇中劇だったのだ。そこでまずほっとした。(笑)その後は「MUKAIYAMAトラブルマスターズ」と似た感じでとても良かった。この手のストーリーは6番シードの得意分野なのかもしれない。

売れないコメディアンが突然現れた女の子と出会うことによって俳優としてスターへの階段を登りつめる物語。女の子は彼を一方的にストーカーのように愛していて、男装し彼の付き人となって彼の夢をどんどん現実のものとしていく。彼と大女優のロマンスを追う週刊誌記者とのやり取りで、彼女は男装をしていたことと実はストリッパーだと言う事が事務所の人間たちにばれてしまう。彼女は彼の足手まといにならないようにと彼には何も告げずに姿を消す。最後は事実を知った彼がストリップ劇場に行き、マスコミを集めて愛の告白をするというハッピーエンド。マスコミのフラッシュが効果を発揮したラストだった。とてもテンポがよく面白く痛快で感動させるものがあった。客が見た回は少なかったのが残念。(前回の影響か・・・)

演技的には前よりも全体的にリアクションが良くなっていた。特に前回から大きく変化を感じたのは女の子の親友役の子だった。駄目だったのは、カメラマンのコーヒーカップの扱い方と撮影の仕方。不自然極まりない。これは演出の責任だ。そして、主人公の男の活舌と物言いも何とかなったらもっといいのにと思った。

劇団6番シード「露の見た夢」
  Date: 2000-12-04 (Mon)

長い間書いてなかった。。。3ヶ月ぶりです。(^^ゞ

映画の感想意見を書こうかなと思いつつも何処まで書いていいのやら考えてしまって、それに公開中に書いたらまだ観ていない人が怒るかな〜とかも考えてしまい、なかなか書けずにいました。今回は演劇で、今日が楽日なので書こうと決心。しかし、これまた細かく書いても、観てない人には分からないし、書く意味があるのだろうか・・・とも思ってしまう。グダグダ言っても始まらないので書く事にしよう。(笑)

2000年12月3日マチネの回を観た。場所は築地本願寺ブディストホール。
前回の芝居が良かったので期待はしていたが、今回は出演者数が異常に多いと聞いていたので少々の不安もあった。全体としては良い出来だった。3回程涙した。芝居はちゃんと書けているし、足の使い方などしっかりと訓練されていて、好感が持てた。

内容は外国の時代物で盗人の主人公が聖者になっていき国に平和をもたらし最後は聖者として国民を守るために自ら処刑される道を選ぶというもの。死や別れのシーンはしっかり泣きを獲っていた。

聞き慣れない地名や種族名(実在しないかも)が多くて始めは分かりづらいところもあったが、これは仕方がないか・・・。ただ、冒頭のモブシーンは失敗。モブは後姿で、しかも、肝心の人物たちにかぶってしまっていた。観ていてつらかった。本来なら手前に処刑される二人を客席に向かせて配置し、その後ろに兵士達そして更に後ろにモブを置くべきだが、舞台の作りからしてああせざるを得なかったのかもしれない。また、説明のためのシーンの説明に無理があったのも残念。

リアクションは舞台だからごまかせるがやはりちゃんとした方がいい。「気付き」「振り向き」等がまだまだ甘い。それから、今回もダブルキャストなので誰がどうとは言わないが、役ではなく自分自身で演じている人が結構多かった。これは前回と比べての判断。

2時間50分の上演時間が短く感じられた。小劇場としてはかなりいい。次回も楽しみだ。

映画「ホワイトアウト」について
  Date: 2000-09-01 (Fri)

先週の日曜日に結構期待して観に行ったのだが、いい出来とは言い難かった。

やりたいことを詰め込みすぎていて、すっきりしない。映画には「映画の嘘」は付き物なのだが、あのヘリコプターを墜落させる為だけの雪崩には閉口してしまった。あまりにリアリティがなさ過ぎる。雪崩にあったというのにヘリコプターも主人公も雪に埋もれていない・・・。「ミッションインポッシブル2」のバイクシーンの方がまだましだった。(笑)

主人公が死んだ親友の恋人に伝えたかったこともはっきりしない。親友から預かった方位磁針を渡したかったのか、回想シーンで親友に「俺が死んだら、彼女を助けてくれ」と言う言葉を守ったことなのか・・・このどちらも伝えたいことではない。製作者側は「彼女を守る」ことと「方位磁針を渡すこと」が彼の行動の原因だと言いたいのだろうが、すっと心にそれが入ってこないもどかしさがある。そして、警察署長が最後にヒロインに言った主人公の伝言は、「主人公が親友を見捨てて逃げたわけじゃない」ということを伝える役目を果たしていたが、これが変に絡んでしまって、もどかしさを増したのかもしれない。後からよく考えれば理解できるのだが、観ている時に心に入り込んでこなければ映画である意味がない。

もうひとつ、分かりづらいのはテロリストの犯罪計画。説明不足で、署長が解明した時に署長と同化して納得できなかった。「画面との対話」がきれいに成立していない。設定を知っている製作者だからこそ陥る「麻痺」のせいだろう。初めて観た客の立場に立った見方が出来なかったようだ。残念。

友人が死んだ原因になった人物がテロリストのメンバーだったということも余分だった。あんなのは無い方がよかった。

心に来たシーンは3シーンのみだった。主人公が署長と電話で話すシーンと、救出されたヒロインに署長が主人公のことを伝えるシーンと、最後のヒロインが方位磁針に気づいて主人公の手を開こうとすると無意識に主人公が方位磁針を握りしめるシーン。芝居のあってうまくいっているシーンが少なすぎだ。

いろいろ良くないことを書き連ねたが、署長役の中村嘉葎雄さんはとても良かった。彼に救われた作品かもしれない。

閑話休題その3(プロとは?)
  Date: 2000-08-02 (Wed)

最近、「プロ」ってなんなんだろうと思うことが多くなりました。世間一般ではそれだけで食っていける人のことを「プロ」というのでしょうが、お金をもらって食っていけることが本当に「プロ」なんでしょうか?仕事の内容が「プロ」でなければいけないのではないでしょうか。

助監督としての下積み期間が14年だった二人の監督が知り合いにいます。A監督は基本的演出ミスが多すぎで、そのミスについてそれとなく意見してみたことがありました。返ってきた答えは「それは好みの問題でしょ」でした。好みの問題だったら、わざわざ意見などしません。絶対にやってはいけないことをやっているから、意見したのです。残念ながら彼は自作に対して満足しているようでした。

一方、B監督はとある自作について「あの撮り方は失敗だった」ともらしていました。しかし、彼は基本的演出ミスはなく、A監督の言う「好みの問題」で引っかかっていたのです。

「基本的演出ミス」と「好みの問題」が分かりづらいと思いますので、少し具体的に書くことにしましょう。

A監督の基本的演出ミスの二つをあげます。

主人公が会社に戻りロッカーの前にいると事務の女性が熱いお茶を持ってきます。主人公はお茶を快くを受け取り、近くのテーブルに移動して座って飲むのです。この移動する時に撮影時に湯呑茶碗にお茶が入っていないことがバレバレなのです。絶対にお茶がこぼれてしまう速さで動き、「こぼさないようにしよう」という意識も全く見えないのです。そして、お茶を飲むのも、3回に別けてはいたものの冷えたお茶を飲むようにクイッと飲み、しかも喉を通っていないのが見て分かるのです。これに関してのA監督の言葉は「お茶を入れるとこぼすから、空茶碗を持たせたんだよね」でした。これを聞いて、「この人は演出時に役者の演技がおかしいと思っていなかったんだな」と私は思いました。見る目があれば、おかしいと思うし、おかしいと思えば直すはずです。こんなのは熱いお茶を入れたまま、「こぼさないように移動してください」というだけで簡単に直せるはずです。これは自主映画の多くの監督がやるようなミスです。このようなミスをして、それがミスだとも思わないのは、ただ単に観点が無いだけです。

もう一つは登場人物の感情が極まってきて、客が「その表情を見たい」と思うところになって、ひきのカットになってしまうのです。これは画面と客の対話が分かっていないことによるミスです。これについてのA監督の言葉は「同じようなカット割が続いて単調になりそうだったから、あそこでひいてみた」でした。要は内容を考えていないということです。

B監督の「撮り方の失敗」というのは「長回しでカメラ移動は超スロー」と「フィックス」の多用でした。作品はバイオレンスなのに実は主人公の心情がテーマの作品だったので、彼はおそらくテーマを重視したのでしょう。そのためにバイオレンスな部分が目立たずに地味になり過ぎたのです。タイトルが派手なのに内容が地味で、確かに違和感がありました。

B監督は、監督を目指す人たちに「とにかく現場で下積みをしなさい」と言います。彼自身は下積みでしっかりした演出法を身に付けられた人だからでしょう。しかし、ただ下積みをしても、観点が無ければ意味がないと私は思っています。同じ下積み期間を費やしたA監督の仕事を見れば一目瞭然です。

二人とも映像演出でお金をもらって飯を食っています。世間的に言えば二人とも「プロ」です。しかし、私はA監督を「プロ」とは呼びたくないのです。間違っているでしょうか?

演劇「MUKAIYAMA ザ・トラブルマスターズ」
  Date: 2000-07-30 (Sun)

今日は続けて二つ目の記述。(笑)
閑話休題その3は次回と言うことで・・・

築地ブディストホール(2000年27日〜30日)
劇団6番シードの第11回公演「MUKAIYAMA ザ・トラブルマスターズ」(作・演出 久間勝彦 氏)を観て来た。私が見たのは楽日のマチネ。良い芝居だった。

劇団6番シードは、今は無き「研究科」のメンバーの一人が新しく入った劇団で、唯一真面目に研究科に参加していた彼女が出演するということで重い腰を上げた。(笑)実はこの劇団の旗揚げ公演「桐の林で、二十日鼠を殺すには」という作品を私は6年前に観ていたのだ。当時一緒に演劇活動をしていた仲間がその芝居に客演として出たからだった。その時、芝居を観る前に台本を読んでとても面白かったのでかなり期待して観に行った。が、せっかく緻密に計算された台本だったのに演出が駄目ですべて滑っていて、がっかりしたのだった。「作・演出が同じ人でどうしてここまで悪くなるのだろう」と思った。今回も作演出は同じ人なのであまり期待せずに観に行ったのだった。

ところが、今回の芝居はとても良かったのだ。久しぶりにアマチュアの小劇場を観て良かったと思った。細かいところは抜きにして、ストーリーも面白く、テーマも、泣かすところも笑わせるところもしっかりしていた。しかも笑いがくだらなくない。ちゃんと計算されたドラマにのっとった笑いだった。悪徳探偵社とずっと思わせておいて最後のどんでん返しのラストシーンが爽快で、帰り道が心地良かった。細かいところがもっとしっかりするとさらに良くなるだろう。この劇団の公演にはこれから足を運ぼうと思う。リンク集に載せてあるので要チェックです。

閑話休題その2
  Date: 2000-07-30 (Sun)

ワークショップを始めてからいろいろな受講者と接して来て、いろんなことが分かってきました。

まずは経歴はそれほどあてにはならないと言うこと。芸歴だけ見ると無名でもかなりの数の出演をしている人がいました。ところが、ワークショップの課題をどれ一つとして出来ないのです。私よりも年上の方でしたが、これは問題があると思ってかなり厳しいことを言いました。彼は反発もせずに続けて出席するようになりました。「この人はちゃんと出来るようになろうとしている」と思い、熱心にこちらも手をかけていましたが、結局一つもOKが出ないまま、いつのまにか来なくなりました。あの人はこれからもあのままでやっていくのだろうか・・・ちゃんとした演技力を要求されないで済む役をずっとやっていくだけで満足なのだろうか・・・とにかく仕事をしてお金をもらえれば「プロ」と言えると思っているのだろうか・・・という思いが湧き上がってきました。

それとは逆に、出演経験も多くて、どの課題もいきなり80%OKの出来を披露してくれる人もいました。それなのに彼女は出席率が高かったので、「何で毎回来るの?あなたは来なくてもいいと思うけど・・・」と私は訊きました。なぜそんなことを訊いたのかと言うとワークショップを始めた頃は私はただ単に「出来ない人を出来るようにする」くらいのつもりでいたからです。「いつも現場では一発OKしかもらったことがなくて、ここでは細かいことを指摘してくれるし、指摘されたことを出来るようにしたら、さらにアドバイスがもらえて自分がどんどん良くなるのを感じられるから面白いんです」という答えが返ってきました。確かに現場では時間がなくて、主要な役にしか演出は力を入れません。それでは伸びる人も伸びないし、あまりいい状況とは言えないと改めて思いました。

一番多いのが継続できない人たちです。数ヶ月真面目に受講して変化が見え始めた頃にパタッと来なくなります。そして、数ヶ月から半年するとまた現れます。完全に元に戻ってしまっていて、最初からやり直し・・・。これでは意味がない・・・。出来るようになるまでやることが大切なのにそれができないのは問題があリます。最終的には本人のプロになりたいという意識の問題ということなると思います。継続することはとても大切なことです。継続も才能の一つかもしれません。

つづく・・・

閑話休題その1
  Date: 2000-07-24 (Mon)

このページを「お気に入り」に入れて毎日何度もチェックされている方々が居ることは嬉しいです。なかなか書けなくてごめんなさい。映画の文法について書きたいのですが、このページでは画像を入れて説明するのが難しく、別にコンテンツを作らなければなりません。現在説明のための画像素材を用意出来ず作成が進んでいません。

今まで書いてきたことも、文章で説明しただけでどこまで伝わっているのだろうかと考えてしまいます。頭で分かるのと体で分かるのは違うと思っているからです。「頭で分かっていても出来ない」というのは私自身も経験してきて、それを克服するのに時間を要しました。現在、専科生もその苦しみを味わっています。しかし、それを乗り越えて初めて理解できるものがあって、それが将来実を結ぶものになるのだと思います。本を読むだけで出来るようになればそんな楽なことはありません。通信教育を取り入れている養成所も見かけますが、ほとんど意味がないです。では、なぜここで私は書いているのか・・・それは、ただ漠然と俳優や監督になりたいと思っている多くの若い人たちに何をしなければいけないのかを少しでも分かって欲しいという思いがあるからです。

ワークショップを始めた頃、「新しいシステムですね」とよく言われました。しかし、本当は古いシステムなんです。(笑)私のやっていることは昔の映画全盛期の教育システムに近いものです。昔、映画会社はキャスト・スタッフを社員として雇っていました。ニューフェイスを募集し、合格者は新入社員となったのです。社内に養成機関を持ち、そこで教育をしていました。映画製作も今よりももっと時間をかけられる環境だったので、現場でも育てる余裕があったのです。東宝のニューフェイスの教育をしておられた故浜野信彦先生と映画監督の鈴木英夫先生と舞台俳優の山崎之也先生から主に私は演技と演出を学びました。それを私の中でまとめたものを今教えています。ただ、他の養成所と違うのは課題が出来ようが出来まいがカリキュラムをこなして卒業させてしまう形を取っていないことと、映像に的を絞ったレッスンをしていることです。多くの養成所は卒業時に「卒業公演」と銘打って演劇公演をする為に映像に必要なレッスンを軽視してしまっているようです。だから、「新しい」と感じる人か多いのかもしれません。

つづく・・・

標準語について
  Date: 2000-07-14 (Fri)

演技者は標準語を必ずマスターすること。首都圏で育ったからと言って標準語が完璧とは限らない。三省堂とNHKから日本語アクセント辞典が出ているので自分のアクセントチェックに活用しよう。

どこの国でもそうなのだが、演技者とアナウンサーは国語の次世代への伝承者であることを忘れてはいけない。

言葉というものは、間違った言葉使い・アクセント・イントネーションでも皆が使うようになると正しくなってしまう。放っておくとどんどん変な方向に向かう。大衆が見るテレビや映画で使われている言葉がしっかりしていれば、本来の言葉の維持が出来るのである。

最近はアナウンサーでもアクセント・イントネーションがおかしい人をよく見かけるようになった。少なくとも演技者は「国語の次世代への継承者だ」という意識をもって言葉を大切に扱うべきだと私は思っている。「標準語が話せなければ演技者ではない」と言っても言い過ぎではないと思う。

ブリスター!
  Date: 2000-07-05 (Wed)

映画「ブリスター!」を観にシネアミューズ・イーストに行って来た。

構成とカット割で見せていく映画だった。手持ちカメラでわざと見づらくしている。そのお陰で飽きずに観れたが、ドラマがほとんどないのがちょっと不満。編集に力を入れたと言うだけあって、意図的に繋がらないカットを繋げているのが躍動感を生む効果になってはいたが、そうでないところでもカットが繋がっていないのはいただけない。芝居の演出ミスもいくつかあったが、スピーディな展開で誤魔化せてたかな?(笑)構成上、仕方ないのだろうが同じカットが何度も出てくるため、眠気を誘われてしまうところもあった。
テーマはしっかり出ていてよかった。ラストのカバンの中身は語るものがあって、いい感じだった。それになんだか懐かしかった。彼の作品の終わり方らしいなぁと思った。
何かに熱中してる人には受けのいい作品かも。いい結果が出ることを祈る。

それから、伊藤英明氏は専科生の一人の中学の時の2個上の先輩だったことが判明。私も数年前日舞で彼と一緒に稽古してたことがあるらしいし・・・世間は狭い。ちなみに監督の須賀大観氏とは学生映画時代の知り合いである。

メソッドについて
  Date: 2000-06-27 (Tue)

日本語読みの読み方の違いで、メソードとも言う。method:方法・やり方という意味の言葉だが、アメリカのリー・ストラスバーグという人が演劇先進国旧ソ連のスタニスラフスキーシステムを参考にして作り上げた演技法のことを言う。リー・ストラスバーグはニューヨークアクターズスタジオを設立して、それまでの形重視の演技から心を重視した演技法を教え、素晴らしい功績を残した。

一年程前、このリー・ストラスバーグの生涯をNHKが特集した。メソッドのすごさを世界に知らしめたと言われる出来事が出て来た。映画の名前は忘れたが、俳優がメソッドを使って脚本に無い台詞を思わず言ってしまったが、それが素晴らしく良いシーンになったというものだった。あれを見た人は素直にすごいと思ったかもしれないが、私はそうは思わなかった。ただ単に元の脚本が稚拙で俳優が脚本の直しをしたに過ぎないのではないか、たまたま、他のシーンに影響を与えずマッチしただけだと思ったのだ。

なぜ、こういうひねくれた事を言っているのか・・・。それは、脚本を無視することを助長しているように思えてならないからである。現に私が今までに会ってきた「メソッドで私は演技をします」とアピールする俳優は脚本をきっちり読み込もうともせず脚本批判をし、「もっと自由にやらせろ」と言う人ばかりだった。役になりきるのはかまわないが、「やらなければいけないことくらいきちんとやれよ」と言いたくなる。

また、メソッドを勉強している俳優志望者で面白いことを言う人がいた。彼は「お腹が痛くなる練習をして、痛くなったら3日治らなかった」というのである。あきれた。次に撮るシーンが元気なシーンだったらどうするんだろう。(爆)このことを別のメソッド信望者に言うと「それはまだ未熟だからだよ。その段階を越すとすごくなるんだ。早くて7年掛かる。俺もまだそこまで行ってない」という答えが返ってきた。更にあきれた。

過去に何人かワークショップに顔を出したメソッド信望者がいるが、誰一人として演技をやって見せてくれた人はいなかった。一度、受講者の一人がメソッド信望者に「何でやらないんですか」と聞いたことがあった。その時の答えは「俺がやると素晴らしいものをやりすぎて、真似しちゃうから」と答えたと言う。いやいや、そんなに素晴らしいものが出来るなら見せて欲しいものだ。

アメリカの大学でメソッドを学んだ人に話を聞く機会があった。実はアメリカのメソッドは俺が批判するべきところは無いようだ。アメリカではメソッドがあたりまえになっている。日本で教えてるメソッドはメソッドの全部ではなくて、一部だということが分かった。元々、形の演技をしていた俳優たちが後からメソッドを取り入れて素晴らしい演技をしたことを忘れてはいけないのである。日本のメソッド教育は心の中のことばかりで形を無視しすぎなのだ。だから、指定したことが出来ない。形も計算も大切で、それをより良いものにする為にメソッドはとても重要なものなのだ。

私のやり方はまず形から教える。そうしないと表現のレベルまで行かないからだ。どんなに心で思っても、それが表に現れなければ意味が無い。ある程度表現になってきたら、心の中の問題に入っていく。

映像は画面でどう見えるかが一番大切なので無理な指定も多くなりがちなのである。その日のスケジュールに組まれたシーンはその日のうちに撮らなければならない。「来週また撮るから、来週までに出来るようにしてきてね」なんて事は無いのである。指定されたことをきっちりやり、しかも、ちゃんとした心のある演技が要求される。形に心を入れる作業がすぐその場で出来なければいけない。役になりきって好き勝手なことを言い、好き勝手に動かれたんじゃお話にならない。ただし、ここで誤解の無いように言っておくと、最初からすべてを指定するわけではない。はじめは自由にやらせる。いいところは採用したり、もっと良くなるようにしたりする。そして悪いところは直す。要は設定を無視したり、書かれてない台詞を言ったり、書いてある台詞を言わなかったりしなければ自由にやっていいのである。自由をはきちがえないで欲しいと言うことだ。

この記述には異議のある人が多くいるであろう。
是非、意見のある人はPC版のWEB FORUMに投稿して欲しいと思う。

感情・感覚の記憶と再現
  Date: 2000-06-24 (Sat)

演技者は、役作りをし演技プランを立て理由付けをして、役の人物として劇中で生きるわけだが、大切なのは役が感じることを本当に感じることである。と言っても、違う人間である以上完璧にはいかない。イメージにより、自分の中にある一番近いものを感じる必要があると言った方が良いであろう。

そのためには、普段から意識して、自分の感情・感覚を記憶して、それを再現出来るようにしておくことである。梅干を食べることを想像すると酸っぱい感覚が蘇ってきて、唾液を出すことが出来る。これは誰もが出来る「感覚の記憶」の例である。演技者は自分が経験する感情・感覚を出来るだけ多く再現出来るように日々努力して欲しい。

感覚に関しては、コーヒーを飲む時、ただ飲むのではなく、カップの柄を持った時の感触・温度、持ち上げる時の重み、コーヒーの香り、唇がカップに触れた時の感触・温度、コーヒーが口に入ってくる感覚・温度・味を記憶して、再現してみると言った具合である。
感情に関しては「もう一人の自分」の項で述べたので、そちらを参照して欲しい。

今回書いたことは非常に大事なことで、メソッド(メソード)と言われる手法のひとつである。しかし、私はメソッドは万能ではないと思っている。特に日本でやられているやり方には疑問が多くある。次回、このメソッドについて私が思うところを述べてみようと思う。

台詞の研究
  Date: 2000-06-19 (Mon)

台詞には、感情の台詞と説明の台詞がある。感情の台詞は当然のごとく感情がなければいけないのだが、実は説明の台詞にも何らかの感情が入るべきなのである。説明の台詞がいかにも説明だと白けてしまう。

例えば推理物のドラマで、主人公が謎解きの解説を始めたとする。何の感情もなくアナウンサーのようにただ説明したらどうなるのか想像してみると良いだろう。謎が解けた時の爽快感や人間関係の裏事情に対する感情や説明する時の自分の推理に対する確信など、いろいろな感情が存在するのがあたりまえである。

普段、人は自分の言いたいことを言っている時、強調したい言葉は強く言ったり、どうでもいいことは流して言ったり、無意識にしている。吸う息も言う言葉の量に合わせてちょうどいい量の息を吸っている。
演技者はそれを再現しなければならない。意識して、無意識にやっているように芝居をするのである。演技には計算が必要である。

初心者は台詞を棒読みにする傾向にあるが、棒読みとは変化がないということである。台詞をよく読んで文節ごとにどういう感情なのかよく研究すること。その感情表現を成り立たせるためにはどういったら良いのか、試行錯誤することが大切である。そして、より良い表現を選んでいくのである。

次に台詞の変化のつけ方を挙げる。

強く・弱く
大きく・小さく
高く・低く
速く・遅く
声の質

これらの組み合わせと呼吸法で台詞の表現は構成されている。ただし、ただ変化を付けただけでは駄目で、感情とマッチングして初めて本物となる。
このことについては、メソッドについて述べる時にまた触れるつもりである。

「演技プラン」と「理由付け」
  Date: 2000-06-16 (Fri)

脚本の意図を良く考えて、このシーンはどういうシーンなのか、シーンのテーマやねらいは何なのか、シーン内の盛り上がりはどこなのかを見極めて、どう演じるのかを組み立てる。これが演技プランである。

どう表現したら面白くなるのか研究するのである。ここで言う「面白い」とは「笑いが取れる」と言うことではない。小劇場出身者は「如何に笑いを取るか」を考えて演技プランを立てる人があまりに多すぎる。本筋とは関係のないもので笑いを取ってもあまり意味がない。如何に「対話」で客を物語に引きずり込むか、そこに面白さがなければならない。このことはいくら文章で説明しても、分かって貰えないかも知れない・・・。

そして、その演技プランを生きたものにするために、その行動言動に「理由付け」をするのである。人間の行動言動は必ず理由があって起こる。それは気持ちや思いである。気が付いたら何処かに居たり、何かを言っていたら、危ない・・・(笑)そういうことは夢遊病だったり、深く考え事をしていていつもの習慣で動いていたりという特殊な場合に起こり得るが普通はないのである。

脚本に書いてあるとか、演出が指定したからという理由で動くのは「理由付け」をしたとは言わない。それはただ単に段取りを踏んだだけである。段取りにならないように気持ちや思いを基点として行動言動が起こせた時にはじめて、生きた人間の行動言動となるのである。そして、その「気持ちや思い」を「理由付け」と言う。この「理由付け」が演技者の一番の仕事と言えるだろう。

「間について」で述べた「心の囁き」は「理由付け」の一部である。

役作り
  Date: 2000-06-13 (Tue)

年齢、性格、時代、生い立ち、職業、環境など、その役がどういう人間なのか脚本から読み取り設定する。脚本に書かれていない事については、演技者の自由である。その自由な部分が演技者の創造の部分であり、演技者なりの個性が発揮されるべきところである。ただし、決して脚本の設定から外れてはいけない。

「もっと自由にやらせてくれ」という初心者がいるが、多くのことを指定されるということは、その人の演技が脚本から逸脱しているということを意味している。演出者に文句を言う前によく脚本を読む必要がある。そして、納得いかなければディスカッションをしっかりするのがよろしい。

役作りの中で軽視されがちなのが生い立ちであるが、これが欠けてしまうとつまらないものになってしまう。兄弟が何人いて、自分が何番目なのか、両親はどういう人でどのような教育を受けてきたのか、どういう経験の持ち主なのか、こういうことはあまり脚本に書かれていない。それをどう創造するかが決め手となる。出来れば自分で作った役作りを紙に書いて、脚本と照らし合わせながら、演技プランを立てることが望ましい。

間について
  Date: 2000-06-09 (Fri)

間の取れる役者は一人前だと言われる。
アマチュアの劇団の稽古場や自主映画の撮影現場で、演出が「もっと間を取って」と言うとただ時間を空ける人をよく見かける。
間とは単なる時間経過ではない。心の動きを表現する非常に大切なものである。

脚本を読む時には相手役の台詞と自分の台詞を深く研究しなければならない。活字になっている台詞は誰にでも分かる。重要なのは活字以外の台詞が脚本の中にあることだ。行間に「演技の宝」が隠されている。それを掘り出すのである。

例えば、あなたが高校生で、先生が突然あなたに「授業が終わったら、そこの喫茶店に行こう。いいね」と言った時、あなたならどうするか?突然なので困る人、嫌がる人、嬉しくなる人、それぞれ心の中に囁きの声が出てくるはずである。その後に「今日、急ぎますから」とか「はい」の返事が出てくるのである。
その誘いを迷惑に思う人は心の中で『困ったわ。どうしようかしら、嫌だな』と囁いている。それが活字以外の台詞であり、「間」になるのである。顔の表情も心の囁きがそのまま表現されるのである。

先生「授業が終わったら、そこの喫茶店に行こう。いいね」
生徒「今日は急ぎますから・・・」

と脚本に書かれていたなら、初心者は「間」を入れずに台詞を続けてしゃべってしまうだろう。

次に、ただ心の囁きをすればよいわけではない。的確な表現に結びつかなければ意味がない。観客がそれを見て、心の囁きを読み取れる表現にならなければいけない。「心の囁き」を工夫して作って、それを表現レベルまでもっていく。俳優の仕事の一つである。

「間」が的確でないと演出者から「もっと縮めて」「もっと間を取って」とダメを出される。心の囁きを削ったり、増やしたり、新たなものに変えたりして、調節する。必要十分な「間」が取れればテンポのある芝居が出来上がるのである。

最近は、「間」を取らずに間髪入れずに台詞を言うことがテンポに繋がると思っている演出を小劇場で多く見かけるが、音としてのリズムとテンポだけで、心に伝わるもののリズムとテンポが軽視されている。非常に残念なことである。前に書いた「対話」も残念ながら成立しない。まあ、演劇の場合はライブだから許されるのだろうが、映画でそれをやったら酷いだけである。

もう一人の自分
  Date: 2000-06-06 (Tue)

自分の行動や感情の変化があった時に、自分の体の状態やそうなるに至った経緯を分析する「もう一人の自分」が普段の勉強に必要である。そして、演じる時に「役になっている自分」を制御する「もう一人の自分」が演技者として必要である。前者は俳優に限らず、監督・脚本家にも必要だと私は思っている。

少し具体的に書くことにしよう。
葬式に行って泣いてしまった時、何が引き金になったのかを考え、自分の呼吸の状態や筋肉の動きとその感覚を出来るだけ細かく分析して覚える。例えば、その引き金は喪主の最後の挨拶の声が突然裏返ってしまったことだったとか、
息は吸った状態で止まってて喉は開いてるとか、嗚咽が出るのは横隔膜が疲れて痙攣を起こしてるからだなとか、泣いている時に言葉が震えてしゃべれないのもそのせいだなとか、顔の筋肉はどこがどう動いているとか・・・とにかく細かく分析して覚えるのである。「感覚と感情の記憶」これが勉強である。そして、それを「再現」するのが俳優の仕事である。
その「再現」を行って芝居をする時に「これ以上泣き過ぎたら台詞が言えなくなるから抑えろ」と言う「もう一人の自分」が出て来たりする。「もう一人の自分」がしゃべっている言葉は表現に反映されてはいけない。(このことについては後日「心の囁き」という題名で書く予定)

この「もう一人の自分」を受け入れることが出来るかどうかで、道は決まると思う。「もう一人の自分」がいると自分の感情に完全に溺れることは出来なくなる。映画も純粋な客のようには観れなくなる。それは、一般的には不幸なことと言えるだろう。私は口では「不幸になる」と言ってはいるが、全然そうは思っていない。「もう一人の自分」がいることがあたりまえになっている。「もう一人の自分」を受け入れることの出来ない人はこの世界で生きていくのは難しいと思う。

予科科目Eでは「役になる」と言うことがどういうことか、そして、「もう一人の自分」の存在を感じてもらうために課題を与えている。それは台本のない自分の言葉でしゃべるものであるが、その感覚と同じ感覚で台本のあるものが出来た時にすばらしいものが出来るのである。

私は映画や演劇を見る時、客として観ながらも必ず「もう一人の自分」が分析をしているが、時々「もう一人の自分」が出て来れないくらい引き込まれるシーンに出くわすと「やられた」と思う。そのシーンの細かいことが思い出せなくなるので、後で観直して分析をする。(笑)

普段が勉強
  Date: 2000-05-31 (Wed)

「普段が勉強だよ」よく聞く言葉である。そして、私もよく使う言葉である。
だが、実際に普段が勉強になっている俳優・監督・脚本家志望者はどれくらい居るのだろうか・・・。これは観点が身に付いていないと実は出来ない。ただ漠然と人の行動を見ていてもダメなのだ。それを教えているのがワークショップなのだか、物になるかどうかは本人の努力次第である。

まず、自分を知ること。
何か自分の感情に変化があった時、視線はどう動いたのか、目の強さはどうだったのか、心の中でなんと囁いたのか、顔をはじめとする体中の何処の筋肉がどう動いたのか、呼吸の状態がどうなったのか等を把握することだ。最初は難しいのだか、意識していれば、ちょっと前に自分のしたことが把握出来るようになる。今まで自分が無意識にしてきたことをとにかく把握することである。そして、それがある程度出来るようになったら、今度は他人を観察するのである。自分と他人が違うのは何処がどう違うのか、どこが同じなのかを分析する。

そうすると人間ならば絶対に同じことをする部分が分かってくる。例えば、驚いた瞬間に人は息を吸う。吐く人は居ない。こういう誰もが同じことをすることをまず基本として抑える。違うところは性格による違いだったり、さまざまな理由がある。それを分析して、自分の引出しにしていく。

言葉で言うのは簡単だし、これを読んであなたは理解したつもりになるかもしれない。頭で「そういうことか」と解ることと実践できるかどうかは別物である。表現の世界で生きていこうと思うのなら、観点は必ず身に付けて欲しいものだ。

「自分を知る」には「もう一人の自分」の存在の確立が必要である。このことについて次回書く。

「芝居(ドラマ)が書けてる、書けてない」って?
  Date: 2000-05-29 (Mon)

「この本は芝居が書けてないね」と言われた時、「芝居が書いてあるのに書けてないって、どういうこと?」と思ったことがある。意味が分からなかった。もしかしたら、その時説明されたかもしれないけど、今は覚えていない。

私が芝居が書けてるかどうかが分かるようになったのは、後輩の書いた演劇の台本を読んだことがきっかけだった。それまではなんとなく分かったつもりでいた。(笑)だから、ここでどんなに説明しても、今は意味がないかもしれない。でも、分かった時に、ああそういうことだったのかと思ってもらえたらいいなと思って書く。

人それぞれ説明の仕方が異なると思うが、本質は同じである。私がよく言うのは、「行間に表現のある脚本が芝居が書けている」という言い方をする。「キャラクター間に生じる心の葛藤がある脚本が芝居が書けている」という人もいる。確かにそうだ。心の葛藤があればリアクションがある。つまり行間に表現があるわけだ。これはただ単に視点が違うだけで言っていることは同じである。演出と演技者は前者、脚本家は後者の言い方になるということだ。

先ほど触れた後輩の台本は完全に芝居の書けてない台本だった。私は脚本や台本を読む時に行間を読んでいくので、上映・上演時間とほぼ同時間読むのに時間がかかる人である。だが、その台本を読んだ時はペラペラ捲くってあっと言う間に読み終えてしまった。ほとんど流し読み状態だった。すごくつまらなかったのだ。登場人物がたくさんいるのだけれど、どの台詞もキャラクターの言葉ではなかったのだ。作者の言いたいことをいろんな役にただ割り振って言わせていただけの台本だった。「そうか、芝居が書けていないとはこういう台本のことを言うんだ」と思った。そして、なぜそれまで分からなかったのかも分かった。素人が書いた本でも普通はどこかがなんとなく芝居の書けたものになってて、気が付かなかっただけなのだと・・・。そして、きちんと芝居の書けているシーンが多ければ多いほどいい作品なのだということがよく分かった。

映人社から出版されている石森史郎先生の「シナリオへの道」は是非読んでもらいたい。非常に勉強になる。もしかしたら初心者には向かないかもしれないが、読みやすい本なのでお薦めである。時間を置いて読み直すと尚良い本である。
また、この本は脚本家志望者のみならず俳優・監督志望者にも是非読んでもらいたい。

脚本
  Date: 2000-05-26 (Fri)

脚本をはじめて読むと面白くないと感じる人が多いと思う。なぜなら、小説と違って、脚本は台詞とト書きだけでとてもシンプルに構成されているからである。そして、ト書きはとても具体的で小説を読みなれた人には味気ないものだと思う。登場人物の気持ちをさまざまな修飾を用いてト書きで表現したりしない。視覚的に見て分かることしか基本的には書かれていない。だから、脚本は読み慣れないと面白くないのである。脚本を読んで映像が浮かぶようになると面白くなってくる。字になってない「行間を読む」ことが必要になる。

「脚本の書き方を教えてください」と言って来る脚本家志望者が時々いる。(笑)
それくらいは自分で勉強して欲しいなと思う。いくらでも本が出ている。
ここでは簡単に書くが簡単に書きすぎるのでじっくり本で勉強してください。

まず、テーマを決める。テーマには評価が含まれる方が良い。
モチーフ(素材)を決める。
シノプシス(あらすじ)を書く。
ストーリーを書く。
大箱・小箱を作る。(箱書き)
箱を見ながらシーンを起こしていく。

シーンを書く時の注意は映像が浮かぶように具体的にト書きを書くこと。
いくら気持ちを書いても意味がない。

例1
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義男は恥ずかしく思った。
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と書くより

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義男は顔を赤らめ下を向いた。
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と書いた方が良い。


例2
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義男はトイレに行こうと思い席を立つ。
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と書くと「トイレに行こうと思い」という表現があいまいで、どう撮ってよいのか困る。

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もじもじしている義男の足。
義男「・・・ちょっと失礼」
義男、席を立つ。

○トイレ
義男、ブルッと体を震わし用を足し終えた安堵の表情。
義男「やっぱり、緊張するな」
────────────────────
と書いた方が良い。

よく、「この本は芝居が書けてない」とか「この本はドラマが書けてない」という言い方をすることがある。説明するのが非常に難しいが次回はこのことについて触れることにしよう。

ワークショップ昔話その3:専科設立への経緯
  Date: 2000-05-22 (Mon)

1999年4月にワークショップ(現在の予科)を終えた人を中心に8人でHSKT研究科を設立した。ワンシーンを稽古して、撮影編集するという形で週一回5時間活動。7月に入った頃、ショートフィルムの製作案がメンバーの一人から出た。「ショートフィルムでの映画祭出品。企画を公募して、キャスト・スタッフはワークショップで育成する。製作資金はスポンサーをつける」という案だった。身近な目標がないと動けない人のためには、ショートフィルムの製作もよいだろうと思い、私は一応賛同した。

映画祭と言っても、ショートフィルムはショートフィルムの映画祭にしか出品は出来ない。名のある映画祭は35mmで60分以上の作品に限られている。この案の問題点は、発案者が製作資金を出してくれるスポンサーを簡単に付けられると思っていることにあった。すでにスポンサーがついていればいいのだが、ついているわけではない。大々的に宣伝をして人を集めて、「スポンサーがつかなかったので出来ません」なんてことになったら、詐欺になってしまう。確実に作れるバックボーンを持たなければいけない。それに養成の件では、ワークショップで教えるのを私のみにやらせる気でいる。と言っても、その時点で教えることが出来る人は私以外に二人しかいないというのが私の判断だったし、現実問題として、私以外に無償で養成の為に時間を割くことが出来る人はいないだろうと思っていた。。

そこで、私は考えた。

過去にワークショップの内容をちゃんと身につけた人は、自由参加であっても自ら進んで全出席していた人だけだったことから、強制参加のワークショップをやる必要がある。今までのようなボランティア的なやり方ではなく、月謝制にして利益を上げて、そこからショートフィルムの製作資金を出そう。また、養成に関しても、研究科メンバーの不公平をなくすために講師には報酬を出すことにしよう。そうすれば、将来的に養成に割いた時間差による権限の差が生じることを回避出来る。教えることは自らの勉強にもなるし、収入が得られるとなれば養成に関わるというメンバーも出てくるだろう・・・と。

しかし・・・賛同者は一人だけ・・・笑った。
反対の理由の一つに「そんな形で集めた金で映画なんか撮りたくない」というのがあった。
ガキじゃないんだから・・・と私は思った。(言わなかったけど・・・)
もし、私が「さっき銀行強盗してきたこの金で映画作ろう」って言ったのなら、それも分からないではないが、ワークショップは立派な経済活動になりうるし、犯罪ではない。それに、ただ金のためにやっているわけではなく、本気で育てようと思ってやっている。
大体、自分が手にしてる一万円札が自分のところに来る前にどういう経路を通ってきたのか、いつも気にしてる人なんていやしない。

結局、本気で映画を作りたいわけじゃないんだと思った。「作れたらいいな」くらいにしか考えていないのだ。そして、「この人たちは皆、他力本願なんだ」ということが分かった。「誰かがなんとかしてくれる」とどこかで思っているのだと・・・。自分がやりたいことのために自分から動こうとはしない。やりたいことをやるためにはやりたくない面倒な細かいこともついてくる。それを嫌がっていては何も先に進まない。

幸いにも、研究科は私が主催していたわけではなくワークショップとは独立させていた。そのため、ショートフィルム製作計画も月謝制ワークショップの導入も、初めは研究科の運営という形にするはずだったが、キヨセ企画の事業として引き受けて、研究科とは一線を引くことにした。そして、私はワークショップ専科の準備に取り掛かった。

1999年10月、「ワークショップ専科」を開設。
それと同時にそれまでの「ワークショップ」を「ワークショップ予科」と改称し、受講料も1コマ1,000円に変更した。今までの倍ではあるが、一般的な他のワークショップや養成所の半額以下である。

専科生はここのところずいぶん実力をつけてきた。変化がよく見受けられるようになった。真剣に取り組んでいる証拠だ。やはり、「継続は力なり」だ。予科生は壁にぶつかると来なくなってしまう。その点、強制参加(月謝制の為「来ないと損」という意識が働く)の専科生は一時期壁にぶつかって停滞しても、もがいてもがいて、何かを掴もうとしている。そして、道が開ける。これが本来の成長の姿だと思う。

やはり、予科は2000年8月いっぱいで終了する。数ヶ月に一回の割合で体験的なワークショップをやるかもしれないが・・・(笑)

専科が起動した1999年10月、私は研究科を抜けた。その後も研究科は続いていたが、私に賛同していたカメラマンの小林さんが抜けてまもなく、どうやら解散したようだ。研究科で得た経験は反面教師として今後の人材育成に役立つであろう。

さあ、すべてはこれからだ!!

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